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2024年4月28日日曜日

大多喜城 本田忠勝

 



『ウィキペディア(Wikipedia)』(引用編集)

logo大多喜城

(千葉県)

再建天守

再建天守

別名 大滝城、大多喜城

城郭構造 連郭式平山城

天守構造 なし

(層塔型3重3階模擬)

築城主 真里谷信清

築城年 大永2年(1521年)

主な改修者 本多忠勝、阿部正次

主な城主 真里谷氏、里見氏、本多氏、

阿部正次、青山正俊、阿部正令、

阿部正春、稲垣重富、長沢松平家

廃城年 明治4年(1871年)

遺構 土塁、横堀跡、堀切、郭、井戸

指定文化財 千葉県史跡(本丸跡)

再建造物 再建天守

位置 北緯35度17分9.18秒 東経140度14分21.63秒

地図

大多喜城の位置(千葉県内)大多喜城大多喜城

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大多喜城(おおたきじょう)は、千葉県夷隅郡大多喜町にあった戦国時代から江戸時代にかけての日本の城(平山城)。初めは小田喜城(おだきじょう)と呼ばれていた。江戸時代には大多喜藩が置かれていた。


歴史[編集]


本丸付近の縄張り図

大永元年(1521年)に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされる。以前は小田喜城は同町内の根古谷城のことであり、今日の大多喜城は徳川家康によって大多喜の地を支配した本多忠勝が築城したものと考えられてきたが、近年の発掘によって現在の城の地下に大規模な城の遺構が遺されていることが明らかとされて、小田喜城と大多喜城とが完全に重なる訳ではない(戦国期には裏山である栗山が城の一部に使われていたが、江戸期には栗山は除かれてやや麓側に縄張りが移動されている)ものの、現在では信清の小田喜城を元にして後の大多喜城が築かれたものと考えられている。


信清の後を継いだ真里谷朝信の代の天文13年(1544年)に、里見氏の武将正木時茂によって真里谷氏は城を奪われて、以後時茂・信茂・憲時の3代に渡って正木氏が支配して、上総国東部支配の拠点とされた。だが、天正9年(1581年)に里見義頼との内紛によって憲時が殺害されると、同城には里見氏の代官が派遣されたという。


天正18年(1590年)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与えられ、その配下の勇将・本多忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立した。忠勝は里見氏の北上を防止するために突貫工事を行い、3層4階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、ふもとに城下町の建設を行った。これが今日の大多喜城である[1]。


以後、この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしてきたが、元和5年(1619年)9月、藩主阿部正次が拠点を移したことにより大多喜藩は一時的に廃藩となったため、城は荒廃した。寛文11年12月(1672年)、阿部正春が1万6千石で入城した際、幕府から「大多喜城は城跡になってしまっているので、追々再建するように」という命令が下ったものの、「一重の塀もないありさまで、門や櫓などもない」という当時の記録の通り、大多喜藩の規模縮小に伴い、荒廃した状態で長く支配が行われていたようである。元禄3年(1690年)の幕府隠密の調査記録と思われる、『土芥寇讎記』にも、「幕府から大多喜城の再建命令が通達されたにもかかわらず、大多喜藩では命令を履行していない。塀もない状態だ。ましてや門や櫓などあろうはずがない」と記されている。史料が少ないために江戸時代の状態は不明な点も多いが、阿部家以降の城主は多少の増築などは行ったようである。ただし山頂の天守などは荒廃していたようである。天保13年(1842年)には天守が焼失し、天守の代わりに2層の「神殿」と称する建築が天保15年(1844年)8月に建てられていたと考えられている。


明治3年12月(1871年)に城は取り壊され、その後本丸も削平されたという[2]。その後、昭和41年(1966年)に本丸跡は千葉県の史跡に指定された。


昭和50年(1975年)に城跡に天保6年(1835年)の図面を基にして天守が再建されて、内部には千葉県立総南博物館(現在の千葉県立中央博物館大多喜城分館)が設置された。建物は三層四階建ての天守閣造り(鉄筋コンクリート造り)である[3]。千葉県立中央博物館大多喜城分館については、2021年12月27日から長期休館となる[3]。千葉県と大多喜町は2021年12月9日に施設を町に移譲することで合意しており、将来的に大多喜町の町営博物館に移行する予定である[3]。


2017年(平成29年)4月6日、「続日本100名城」(122番)に選定された。


天守[編集]

天保13年(1842年)の天守焼失後、焼失した天守に代えて「神殿」と称する建物が建てられたとされるが、大多喜藩が財政難に苦しんでいた時でもあり、粗末な建築物だったのではないかと、この城を研究した渡邉包夫は考えている。火災があったことに関しては、昭和48年(1973年)の学習院大学の発掘調査でも大量の焼土が発見されたことで裏づけられているが、改築および天守建築を否定する説もある。小高春雄は改築そのものを否定する日本工業大学の見解[4]を紹介し、やや否定説に傾きつつも、渡邉が発見した大多喜城天守絵図面の存在から完全に否定できないとする、玉虫色の見解を示している。


天守存在説に関しては学界でも論議があり、非実在説もある。非実在説の根拠としては、


寛文年間と推定される大多喜城の絵図には、天守が描かれていない。

上記の通り、寛文11年の記録には「一重の塀もないありさまで、門や櫓などもない」とある。櫓もないのだから天守もなかったのではないか。

また、元禄3年の『土芥寇讎記』にも、「塀もない状態、ましてや門や櫓などあろうはずがない」と書かれているということは、この時点でも天守はないのではないか[5]。

サン・フアン・デ・ウルア要塞守備隊長やフィリピン総督を歴任したドン・ロドリゴが、慶長14年(1609年)にこの城を訪れているが、ドン・ロドリゴの記録『日本見聞録』に天守が登場しない。

発掘調査時に天守石垣の痕跡がなかった。

などが挙げられているが、2通りの天守絵図が存在することや、本丸は明治時代に削られたために石垣の痕跡はそもそも見つからないのではないかという反論もあり、現在でも結論に至っていない。このため、この城の再建天守の評価が書籍によって「復元」「復興」「模

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大多喜城
千葉県
再建天守
再建天守
別名大滝城、大多喜城
城郭構造連郭式平山城
天守構造なし
(層塔型3重3階模擬)
築城主真里谷信清
築城年大永2年(1521年
主な改修者本多忠勝阿部正次
主な城主真里谷氏里見氏本多氏
阿部正次青山正俊阿部正令
阿部正春稲垣重富長沢松平家
廃城年明治4年(1871年
遺構土塁、横堀跡、堀切、郭、井戸
指定文化財千葉県史跡(本丸跡)
再建造物再建天守
位置北緯35度17分9.18秒 東経140度14分21.63秒
地図
大多喜城の位置(千葉県内)
大多喜城
大多喜城
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大多喜城(おおたきじょう)は、千葉県夷隅郡大多喜町にあった戦国時代から江戸時代にかけての日本の城平山城)。初めは小田喜城(おだきじょう)と呼ばれていた。江戸時代には大多喜藩が置かれていた。

歴史[編集]

遺構[編集]













徳島城

 



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(引用編集)

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徳島城

(徳島県)

徳島城三の丸石垣と城山

徳島城三の丸石垣と城山

別名 渭山城、渭津城

城郭構造 梯郭式平山城

天守構造 あり(1588年・非現存)

東二の丸御三階櫓(1615年以降)

築城主 蜂須賀家政

築城年 天正13年(1585年)

主な城主 蜂須賀氏

廃城年 明治2年(1869年)

遺構 石垣、堀、庭園

指定文化財 国の史跡、国の名勝(表御殿庭園)

再建造物 鷲の門

位置 北緯34度4分30.69秒 東経134度33分18.99秒座標: 北緯34度4分30.69秒 東経134度33分18.99秒

地図

徳島城の位置(徳島市内)徳島城徳島城

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地図Wikimedia | © OpenStreetMap

徳島城の位置


徳島城の航空写真

(1974年撮影・国土航空写真)

徳島城(とくしまじょう)は、徳島県徳島市徳島町にあった日本の城。城跡は国指定の史跡、名勝(表御殿庭園)になっている。


概要[編集]

徳島城はJR徳島駅の北側にあり、徳島市の中心部に位置する。


吉野川河口付近の中洲に位置する標高61メートルの城山に築かれた山城と城山の周囲の平城からなる、連郭式の平山城である。


歴史・沿革[編集]


阿波国徳島城之図


旧徳島城表御殿庭園


徳島中央公園の花見


復元された鷲の門。後方右側の森は城山


眉山から望んだ城山

渭山城・寺島城[編集]

この地は鎌倉時代より伊予国地頭の河野氏が支配していた。室町時代の1385年(至徳2年)に細川頼之が四国地方にあった南朝方の勢力を討ち、現在の城地の城山に小城を築いた。頼之は助任川の風光を中国の渭水に例え、この地を渭津、山を渭山と名付けた。


『城跡記』は徳島城築城について「渭山寺島両城を合して一城となす」と記す。寺島城は平地にあった城で、文献は寺島の西端(現 郷土文化会館付近)とするが、発掘調査ではのちの花畑(現 市立体育館付近)の可能性が示唆される[1]。


徳島城[編集]

戦国時代になると、阿波の地は群雄が割拠し、しばしば城主が入れ替わった。1582年(天正10年)には土佐国の長宗我部元親が侵攻し阿波が平定された。


1585年(天正13年)、豊臣秀吉の四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が阿波1国18万6000石を賜った。入封当初は徳島市西部にあった一宮城に入城したが、入封早々に現在の地に大規模な平山城を築造し、1年半後の1586年(天正14年)完成した。以後、大坂の陣の戦功等により淡路7万1千石の加増がされ、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万7千石の居城となり、明治維新を迎える。


廃城後[編集]

「徳島中央公園」も参照

1873年(明治6年)に発布された廃城令により存城処分となり、1875年(明治8年)には鷲之門を除く御三階櫓以下、城内のすべての建築物が撤去された。1905年(明治38年)の日露戦争の戦勝を記念して、城跡の大半が1906年徳島公園(現 徳島中央公園)として開設され、1910年一般に開放された。


ただし、旧御花畠は幕末に練兵場、1889年より徳島監獄署(現 徳島刑務所)が置かれ、公園からは除かれた。その後、公園の範囲は多少変動し、現在はかつての城内のうち御花畠の西半分(現 合同庁舎・民有地)、西の丸の大半(現 内町小学校)、三木郭の南部(現 文化センター)が公園に含まれない。


1941年(昭和16年)には表御殿庭園が国の名勝に指定された。明治以降の城地は石垣と堀、庭園、鷲之門のみが残った。


1945年(昭和20年)7月4日の徳島大空襲により、城跡内のほとんどの建物と共に唯一現存していた鷲之門も焼失した。


1989年(平成元年)、鷲之門が復元された。


2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(76番)に選定された。


構造[編集]

[icon]

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石垣[編集]

石垣の石には、眉山の三波川変成岩(結晶片石)が使われている。岩石の種類としては、青石(緑簾石‐アクチノ閃石片岩・緑簾石‐藍閃石片岩)・紅簾片石・石英片岩である[2]。なお、表御殿庭園の庭石には、眉山の石のほか、鳴門・淡路の海岸から舟で運ばれた石も使われている。これを含め、運送の難から、内陸で採れる石材は使われていない[2]。


山城の石垣はほとんどが現存するが、三の丸跡の一部(現 城山配水池)などが失われている。平城の石垣も現存するものが多いが、寺島川沿い(現存する河岸の石垣ではなくその内側にあった居城の曲輪の石垣)、西の丸の石垣の大半(西の石垣の外側のみ現存する)などが失われている。


堀[編集]

吉野川から分流する、助任川・福島川・新町川・寺島川(現 JR徳島駅と牟岐線)を外堀とし、さらに内側に堀川・瓢箪堀(現 東出来島町東部)があった。なお、寺島川の大半と瓢箪堀は、堆積や埋め立てにより現存しない。


山城[編集]

「城山 (徳島市)」も参照

徳島城の山城は連郭式であり、いくつかの曲輪が段差を持って連続していた。西から順に、三の丸・西二の丸・本丸・東二の丸である。


天守[編集]


東二の丸の天守跡

創建当時の天守は元和年間(1615年–1624年)に取り壊されたといわれており[3]、まもなく、城山の中腹にある東二の丸に天守代用の御三階櫓が構えられた。


東二の丸天守は、天守破却後に天守の代用として建てられた、当時は御三階櫓と呼ばれていたものである。なぜ、二の丸に建てられたのかは定かではなく、景観バランスを整えるためであるとか城の防備上の都合によるものなどが考えられている[4]。1873年(明治6年)の廃城令の発布により撤去された。


3重3階建てで、櫓台はなく初重平面形は正方形である。下から7間四方・5間四方3間四方といった具合の層塔型の特徴である一定の逓減率があるが、外観は望楼型といういわゆる復古型などと呼ばれるものである。外観意匠は、全面下見板張で破風は3重目の入母屋破風のほかに1重目の向唐破風と大入母屋破風が付けられていた。又、天守の木造復元計画は議論されたが決まっていない。


城山[編集]

城山西方には西の丸、そのさらに西には御花畠(おはなばたけ)があった。


西の丸[編集]

現在の内町小学校・ライオンの森・徳島市民庭球場西の丸コートにかけて存在していた。城山と接する東を除く三方を石垣で囲まれていた。内町小学校の西の塀の外側として残存する。


もともとは西からの防衛拠点だったが、太平の世になるとその意義を失い、藩祖家政が隠居してからは、隠居した元藩主の屋敷となった。


御花畠[編集]

現在の地方合同庁舎・武道館・市立体育館にかけてあった。以前は瓢箪島(ひょうたんじま)と呼ばれた、助任川・寺島川・人工の瓢箪堀に三方を囲まれた半島である。


御殿と庭園があり、御殿は歴代藩主の子供の養育の場として使われた。庭園は海内無双の大庭園とされ、岡山の後楽園に匹敵したと言われる[1]。しかし幕末には取り壊され練兵場となった。


城山の南[編集]

城山南方に徳島城の主要な殿舎が並び、当時は単に「御城」「御屋敷」などと呼ばれていた。ここでは「居城」とする[5]。そのさらに南には三木郭があった。


太鼓櫓と月見櫓[編集]

三木郭から下乗橋で堀川を越え、居城に入る大手口の両脇に構えられた櫓である。東に月見櫓、西に太鼓櫓があった。特に太鼓櫓は、望楼型の3重4階であり、天守のような造りをした大型の櫓であった。どちらも最上階に外廻縁高欄があり、物見の目的と娯楽の目的を持っていた。


いずれも櫓台石垣が現存するが、太鼓櫓の左端は通路確保のために削られている。削った跡に、石垣がきれいに積まれており境を見つけることは難しい。又、月見櫓は木造復元の運動はあるが、予算の関係で進んでいない。


三木郭と鷲の門[編集]

現在の鷲の門広場から文化センターにかけて建てられた曲輪で、東には鷲の門があった。


5代藩主蜂須賀光隆 (在職 1652年–1666年) が三木という人物に命じて作らせたと言われる。しかし、1989年の発掘調査でも文禄慶長期 (1592年–1615年) と推定される滴水瓦が出土しており、『阿淡年表秘録』の記述では1603年(慶長8年)に鷲の門に関する記述があるため、1603年にはすでにあった可能性が指摘されている[6]。


城下町[編集]

徳島と寺島、つまり、現在の内町地区のうち出来島・旧花畑(および近代の埋立地)以外が内郭とされた。この外の福島・住吉島・常三島・出来島・瓢箪島(以上に徳島・寺島を加え阿波の七島と呼ぶ)・助任・大岡・佐古・富田が外郭である。合わせて御城下(ごじょうか)・御山下(ごさんげ)と呼んだ[1]。


現状[編集]

鷲の門の復元[編集]

詳細は「鷲の門」を参照


復元された鷲の門

江戸時代に徳島城を建築した際に蜂須賀氏が正門として建てた。廃城令により徳島城が廃城となった後も、鷲の門だけは残されていたが、1945年(昭和20年)の徳島大空襲によって焼失した。


1989年9月27日に徳島市制100周年を記念して復元された[7]。門前にある道路の関係から門の規模と位置は当時とは少し異っている。


城山[編集]

徳島城の山城部分は、標高61.7メートル[8]の城山に建っていた。


北面には助任川が流れており、山内の城山原生林は徳島市天然記念物に指定されている。


山麓では1922年(大正11年)、鳥居龍蔵により城山の貝塚が発見され調査された。現在、山腹にアオサギが繁殖し糞害で周辺の樹木が枯れる等の問題が起こっている。


夏になると阿波踊りの練習をするために有名連がここで練習する風景が目立つ。また、付近の幼稚園や小中学校の遠足としてよく利用されている。


城跡の主な施設[編集]

「徳島町城内」も参照

北西から南東の順。(埋)は、江戸時代には河道だった近代の埋立地に一部が建つ施設である。(移)は、城跡外に移転した施設である。


徳島地方合同庁舎

徳島県立中央武道館 (埋)

徳島市立体育館

徳島市立内町小学校

徳島市民庭球場 (埋)

徳島縣護國神社 (移)

徳島県立図書館 (移)

徳島市立徳島城博物館

旧徳島城表御殿庭園

徳島市立文化センター (埋)


徳島城
徳島県
徳島城三の丸石垣と城山
徳島城三の丸石垣と城山
別名渭山城、渭津城
城郭構造梯郭式平山城
天守構造あり(1588年・非現存)
東二の丸御三階櫓(1615年以降)
築城主蜂須賀家政
築城年天正13年(1585年
主な城主蜂須賀氏
廃城年明治2年(1869年
遺構石垣、堀、庭園
指定文化財国の史跡、国の名勝(表御殿庭園)
再建造物鷲の門
位置北緯34度4分30.69秒 東経134度33分18.99秒座標北緯34度4分30.69秒 東経134度33分18.99秒
地図
徳島城の位置(徳島市内)
徳島城
徳島城
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徳島城の位置
徳島城の航空写真
(1974年撮影・国土航空写真)

徳島城(とくしまじょう)は、徳島県徳島市徳島町にあった日本の城。城跡は国指定の史跡名勝表御殿庭園)になっている。

概要[編集]

徳島城はJR徳島駅の北側にあり、徳島市の中心部に位置する。

吉野川河口付近の中洲に位置する標高61メートルの城山に築かれた山城と城山の周囲の平城からなる、連郭式平山城である。

歴史・沿革[編集]

阿波国徳島城之図
旧徳島城表御殿庭園
徳島中央公園の花見
復元された鷲の門。後方右側の森は城山
眉山から望んだ城山

渭山城・寺島城[編集]

この地は鎌倉時代より伊予国地頭河野氏が支配していた。室町時代1385年至徳2年)に細川頼之四国地方にあった南朝方の勢力を討ち、現在の城地の城山に小城を築いた。頼之は助任川の風光を中国の渭水に例え、この地を渭津、山を渭山と名付けた。

城跡記』は徳島城築城について「渭山寺島両城を合して一城となす」と記す。寺島城は平地にあった城で、文献は寺島の西端(現 郷土文化会館付近)とするが、発掘調査ではのちの花畑(現 市立体育館付近)の可能性が示唆される[1]

徳島城[編集]

戦国時代になると、阿波の地は群雄が割拠し、しばしば城主が入れ替わった。1582年天正10年)には土佐国長宗我部元親が侵攻し阿波が平定された。

1585年(天正13年)、豊臣秀吉四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が阿波1国18万6000を賜った。入封当初は徳島市西部にあった一宮城に入城したが、入封早々に現在の地に大規模な平山城を築造し、1年半後の1586年(天正14年)完成した。以後、大坂の陣の戦功等により淡路7万1千の加増がされ、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万7千の居城となり、明治維新を迎える。

廃城後[編集]

1873年明治6年)に発布された廃城令により存城処分となり、1875年(明治8年)には鷲之門を除く御三階櫓以下、城内のすべての建築物が撤去された。1905年(明治38年)の日露戦争の戦勝を記念して、城跡の大半が1906年徳島公園(現 徳島中央公園)として開設され、1910年一般に開放された。

ただし、旧御花畠は幕末練兵場1889年より徳島監獄署(現 徳島刑務所)が置かれ、公園からは除かれた。その後、公園の範囲は多少変動し、現在はかつての城内のうち御花畠の西半分(現 合同庁舎・民有地)、西の丸の大半(現 内町小学校)、三木郭の南部(現 文化センター)が公園に含まれない。

1941年昭和16年)には表御殿庭園が国の名勝に指定された。明治以降の城地は石垣と堀、庭園、鷲之門のみが残った。

1945年昭和20年)7月4日徳島大空襲により、城跡内のほとんどの建物と共に唯一現存していた鷲之門も焼失した。

1989年平成元年)、鷲之門が復元された。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(76番)に選定された。

構造[編集]

石垣[編集]

石垣の石には、眉山三波川変成岩結晶片石)が使われている。岩石の種類としては、青石緑簾石アクチノ閃石片岩・緑簾石‐藍閃石片岩)・紅簾片石石英片岩である[2]。なお、表御殿庭園の庭石には、眉山の石のほか、鳴門淡路の海岸から舟で運ばれた石も使われている。これを含め、運送の難から、内陸で採れる石材は使われていない[2]

山城の石垣はほとんどが現存するが、三の丸跡の一部(現 城山配水池)などが失われている。平城の石垣も現存するものが多いが、寺島川沿い(現存する河岸の石垣ではなくその内側にあった居城の曲輪の石垣)、西の丸の石垣の大半(西の石垣の外側のみ現存する)などが失われている。

[編集]

吉野川から分流する、助任川福島川新町川寺島川(現 JR徳島駅牟岐線)を外堀とし、さらに内側に堀川・瓢箪堀(現 東出来島町東部)があった。なお、寺島川の大半と瓢箪堀は、堆積埋め立てにより現存しない。

山城[編集]

徳島城の山城は連郭式であり、いくつかの曲輪が段差を持って連続していた。西から順に、三の丸・西二の丸・本丸・東二の丸である。

天守[編集]



 



脚注[編集] 徳島城石垣が特徴です雨で変色。





  1. a b c 河野幸夫『徳島 城と町まちの歴史』(聚海書院、1982年)
  2. a b 岩崎正夫「第一章 徳島中央公園の自然 二 城の石垣」(「徳島城」編集委員会編『徳島市民双書 28 徳島城』徳島市立図書館、1994年)
  3. ^ 財団法人日本城郭協会監修『歴史群像シリーズ 日本の100名城公式ガイドブック』(学習研究社、2007年)
  4. ^ 西ヶ谷恭弘監修『復原「名城天守」』(学習研究社、1996年)
  5. ^ 本田昇「第三章 徳島城 一 縄張」(「徳島城」編集委員会編『徳島市民双書 28 徳島城』徳島市立図書館、1994年)
  6. ^ 本田昇「第三章 徳島城 一 縄張」(「徳島城」編集委員会編『徳島市民双書 28 徳島城』徳島市立図書館、1994年)
  7. ^ 徳島市:徳島中央公園参照。




画像[編集]