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2024年1月31日水曜日

日本の城 姫路城

 






「姫路」の名の由来

姫路城の写真

姫山全景(北側から)

「姫路」の名は、播磨国風土記に出てくる「日女道丘」からきています。神代の昔、大汝命は、その子火明命があまりに乱暴者なので、海へ出た際、捨ててしまおうと島に置き去りにして船出。ところが、船が出てゆくのに気づいた火明命は大変怒り、風波を起こして船を難破させてしまいました。
その時、船や積み荷などが流れ着いた場所に「船丘」「犬丘」「筥丘」「琴丘」など14丘の名が付けられましたが、その一つ、蚕子の流れ着いたところが「日女道丘」で、現在姫路城のある「姫山」であるとされています。「蚕子」は古語で「ひめじ」といいました。
地名としての「姫路」という呼び方は、江戸時代初期、池田輝政が姫路城を築き、城下町を整備した当時の文献に見られます。

榊原騒動

ゆかたを着てまつりに参加する人々の写真

榊原政岑が発案し今に続く
伝統のまつり「姫路ゆかたまつり」

姫路城主榊原政岑は信仰心に厚く、ゆかた祭を始めたことでも知られる心豊かな城主。しかし、日光代参の希望が幕府に聞き入れられなかったことに不満を持ち、酒色におぼれて、吉原通いを始じめました。そして「色婦録」にも艶名をうたわれた名妓高尾を落籍。姫路に連れ帰って、城内西屋敷に住まわせました。
これらの行状が、当時倹約を推し進めていた幕府に知れ、政岑は糾弾されます。
やがて政岑は20代の若さで隠居を命じられ、榊原家は越後高田へ転封となり、高尾も政岑に従い、共に越後高田へと下ったのでした。

棟梁・桜井源兵衛の死

「真柴久吉公播州姫路城郭築之図」

歌川貞秀作「真柴久吉公播州姫路城郭築之図」

池田輝政による姫路城築城の時、完成した天守から一人の男が身を投げて自殺したといわれています。その男の名は、城普請にあたった大工の棟梁・桜井源兵衛。
輝政に命じられ、9年間、寝る間も惜しんで仕事に打ち込み、やっと完成した姫路城。しかし、彼には、丹精込めて造り上げた天守閣が巽(東南)の方向に少し傾いているように思えてなりませんでした。
そこで妻を伴って天守に登ると、「お城は立派ですが、惜しいことに少し傾いていますね」と指摘されてしまいます。「女の目にわかるほどとすれば、自分が計った寸法が狂っていたに違いない」とがくぜんとした源兵衛は、まもなくノミをくわえて飛び下りたといわれています。
実際に城が東南に傾いていたのは解体修理で確かめられています。本当の理由は、東と東南隅の石垣が沈んだためでした。

お菊井戸

お菊神社とお菊井戸の写真

上:お菊神社、下:お菊井戸

城内の上山里丸と呼ばれる広場にある「お菊井戸」が、有名な「播州皿屋敷」に出てくる井戸だといわれています。
永正年間のこと、城主小寺則職の執権青山鉄山が城の乗っ取りを計画。これに気づいた忠臣の衣笠元信は、愛妾のお菊を青山家に女中として送り込み、陰謀を暴きます。しかし、努力のかいもなく、青山一家のクーデターは成功。それでもお菊は青山家に残り、龍野に逃れた元信に情報を送っていましたが、ついに町坪弾四郎に気づかれてしまい、それを盾に結婚を迫られます。しかし、お菊はどうしても首を縦に振りません。腹を立てた弾四郎は家宝の皿10枚のうち1枚を隠し、お菊の不始末として責め殺して井戸に投げ込みました。それからというもの毎夜、「1枚、2枚…」と皿を数えるお菊の悲しげな声が井戸から聞こえるようになったといいます。
その後、元信ら忠臣によって鉄山一味は滅ぼされ、お菊は「於菊大明神」として十二所神社の境内にあるお菊神社に祭られています。

姥が石

姥が石の写真

羽柴秀吉が姫山に三層の天守を築いていたときのこと、城の石垣の石がなかなか集まらず、苦労しているという話が広まっていました。城下で焼餅を売っていた貧しい老婆がそれを聞き、「せめてこれでもお役に立てば」と古くなった石臼を差し出しました。
これを知った秀吉は大変喜び、石臼を現在の乾小天守北側の石垣に使いました。この話はたちまち評判となり、人々が競って石を寄進したため、工事が順調に進んだといわれています。

宮本武蔵の妖怪退治

刑部神社の写真

大天守最上階にある刑部神社

木下家定が城主であった時代のこと、姫路に立ち寄った宮本武蔵が名前を隠して足軽奉公をしていました。そのころ、城に妖怪が出るといううわさが広まっていましたが、武蔵が平気で夜の出番を勤めていたことが家老の耳に入り、名高い武芸者であることが知られました。
木下家の客分にとりたてられた武蔵に、妖怪退治の命が下りました。武蔵がある夜、灯ひとつを持って天守閣に登り、3階の階段にさしかかった時、すざましい炎が吹き降り、地震のような音と振動が。武蔵が腰の太刀に手をかけると、辺りはまた元の静けさに戻りました。4階でもまた同じことがありましたが、構わず天守を登り、明け方まで番をしていたところ、美しい姫が現れ「われこそは当城の守護神、刑部明神なり。その方がこよい参りしため、妖怪は恐れて退散したり。よって褒美にこの宝剣を取らす。」といって姿を消しました。武蔵の前には白木の箱に入った郷義弘の名刀が残されていたということです。

お夏・清十郎

比翼塚の写真

比翼塚

清十郎は室津の造り酒屋の息子で、何不自由もなく育った美青年。訳あって、19歳の時、姫路本町の米問屋但馬屋に奉公に出ますが、いつしかそこの美しい娘・お夏と恋仲に。しかし、2人の恋は許されず、思い余って駆け落ちしますが、捕えられ、清十郎は盗みのぬれぎぬで、25歳の若さで処刑されてしまいます。お夏は悲しみのあまり発狂し、清十郎の姿を求めて町をさまよい歩くのでした。この物語は、井原西鶴、近松門左衛門の小説や戯曲などで全国に広く知られるようになりました。悲劇の2人の霊をなぐさめる比翼塚が、野里の慶雲寺にあります。

お問い合わせ

姫路市役所観光経済局姫路城総合管理室姫路城管理事務所

住所: 〒670-0012 姫路市本町68番地 姫路城三の丸広場北側

住所の地図

電話番号: 079-285-1146 ファクス番号: 079-222-6050

電話番号のかけ間違いにご注意ください!

お問い合わせフォーム (世界遺産姫路城より引用)

2024年1月30日火曜日

 日本の城  名護屋城

 







名護屋城

名護屋城・陣跡の概要

  • 名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた城です。
  • 1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が 撤退するまで、7年の間大陸侵攻の拠点となりました。
  • 城の面積は約17ヘクタールにおよび、当時では大坂城に次ぐ規模を誇りました。
  • 周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が集ったとされています。
  • 現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されています。

バーチャル名護屋城

名護屋城跡では、バーチャルリアリティ(VR)によって 名護屋城の壮大な姿が甦ります。 「420年前の名護屋城」をあなたもぜひ体験してください。

名護屋城跡案内アプリ

名護屋城跡を楽しみながら散策できる体験型アプリ「肥前名護屋城の謎を解く」を利用できます(貸出用タブレットでも利用可能です)。

築城当時の名護屋城の様子

写真
(名護屋城・城下町復元模型/常設展示室)

特別史跡 名護屋城跡

写真
(画面中央/その左下が名護屋城博物館)

(県立 名護屋城博物館HPより引用)

2024年1月29日月曜日

 日本の城 高遠城

 







国指定史跡であり日本百名城の1つでもある高遠城は、戦国大名武田氏の城としても名高い城ですが、現在は桜の名所の公園となっており


現地を訪れても「ここが本当にお城なの?」という感想を抱く方も少なくありません。ところが、注意深く歩いてみると、公園内のあちこちにお城の名残なごりがみられます。

高遠城の上空を鶴が舞う様子が描かれた江戸時代の絵巻物
高遠城本丸上空を鶴が舞う様子 『高藩探勝』絵巻より「郭上鶴」江戸時代中期作成)(伊那市HP参照引用)

 日本の城 小田原城











 小田原城は、室町時代に西相模に進出させた大森氏が築いた城郭が前身とされているのです。



城の規模や築城年ははるかになりましていませんが、15世紀の中頃に造られましたのではないと思われています。



1500年頃、伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原に進出し、以後、北条氏が5代約100年にわたり関東での勢力を拡大していったのでした。



小田原城は、関東支配の中心拠点として整備拡張されまして、豊臣秀吉の来攻に備え、城と城下を囲む総延長9kmに及ぶ総構の出現に至ってその規模は最大に達してしまった。



しかしていながら、天正18年(1590)、石垣山(一夜城)の築城をはじめとする秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡し、戦国時代が終焉を迎えました。



北条氏滅亡後、徳川家康に従いまして小田原攻めに参陣した大久保氏が城主となって、城は近世城郭の姿に改修された。



そこから、大久保氏の改易にあたり、城の一部は破却されたが、稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新された。



貞享3年(1686)に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。



小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治5年(1872)までに城内のすべての建物は解体されました。



後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、さらに明治34年(1901)には、二の丸に御用邸が建てられた。



でも、大正12年(1923)9月の関東大震災により御用邸のほか石垣もほぼ全壊し、江戸時代の姿は失われてしまおりました。



その後、昭和9年(1934)に隅櫓が再建され、昭和35年(1960)5月には廃城以来90年ぶりに市民待望の天守閣が復興されました。



続いて昭和46年(1971)3月に常盤木門、平成9年(1997)10月に銅門、平成21年(2009)3月には馬出門が完成しました。



小田原城は、昭和13年(1938)8月に二の丸・三の丸の一部が、昭和34年(1959)5月に本丸と二の丸の残り全部が国の史跡に指定されます。(小田原市ホームページ参照)







2024年1月25日木曜日

日本の城 紹介動画

 2024年1月25日から「日本の城」を調べて見ることにしました。

ここ数年は城が報道などで取り上げられています。多くは観光が柱であるようです。

それでもいいと言えます。

 とにかくたのしく城のことを理解したいのです。








🚀

日本の城

️ Answer

2024年1月25日現在、全国で人気の日本の城は以下のとおりです。

  1. 姫路城 (兵庫県)
  2. 大阪城 (大阪府)
  3. 熊本城 (熊本県)
  4. 名古屋城 (愛知県)
  5. 彦根城 (滋賀県)
  6. 松本城 (長野県)
  7. 小田原城 (神奈川県)
  8. 高知城 (高知県)

これらの城は、いずれも天守が現存しており、美しい景観や歴史的価値から、多くの観光客に人気があります。

人気ランキングの調査方法は、以下のとおりです。

  • 2024年1月1日から31日までの期間に、Yahoo! JAPANの検索エンジンで「日本の城」と検索された回数を集計。
  • 検索された回数が多い順にランキングを作成。

なお、このランキングは、あくまでも検索された回数に基づいたものであり、必ずしも人気度を正確に反映しているわけではありません。