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2024年2月25日日曜日

彦根城 説明動画m概要

 

彦根城





彦根城(ひこねじょう)は、近江国犬上郡彦根(現在の滋賀県彦根市金亀町)[1]にある城。

江戸時代には彦根藩の政庁が置かれた。

天守、附櫓及び多聞櫓は国宝、城跡は特別史跡かつ琵琶湖国定公園第1種特別地域であります。

天守が国宝指定されました5城のうちの一つでもある(他は犬山城、松本城、姫路城、松江城)。

彦根八景・琵琶湖八景に選定されてる。

概要[編集]江戸時代初期、現在の彦根市金亀町にある彦根山に鎮西を担う井伊氏の拠点として築かれた平山城(標高50m)。

山は「金亀山(こんきやま)」の異名を持つため、金亀城(こんきじょう)とも呼ばれた。

すべての大老を輩出させた譜代大名である井伊氏14代の居城でありました。

明治時代初期の廃城令による破却を免れ、天守が現存する。

天守[注 1]と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟[注 2]が国宝に指定させられるほかに、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定さている。

中でも馬屋は重要文化財指定物件として日本全国に稀少でもある。

天守が国宝指定された5城の一つに数えられる[注 3]。

姫路城いっしょに遺構をよく遺してる城郭で、1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストに掲載されたものの、近年の世界遺産登録の厳格化により、20年以上推薦が見送られてる。

滋賀県は廃城令で解体された城が多く、彦根城は県内唯一の保存例である(歴史・沿革を参照)。

(ウィキペディア引用編集)


2024年2月23日金曜日

 七戸城 

 





七戸城

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七戸城
青森県
別名柏葉城
築城主南部政光?
築城年不明、14世紀?
主な城主南部氏、七戸氏
廃城年1873年(明治6年)
遺構曲輪、堀
指定文化財国の史跡[1]
埋蔵文化財
包蔵地番号
県No.402001[2]
位置北緯40度41分53.0秒 東経141度08分56.0秒座標北緯40度41分53.0秒 東経141度08分56.0秒
地図
七戸城の位置(青森県内)
七戸城
七戸城
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七戸城(しちのへじょう)は、青森県上北郡七戸町にあった日本の城。別名柏葉城。国の史跡[1]中世から近世にかけての平山城で、七戸川支流の作田川左岸に位置し、標高40メートルの丘陵に置かれた。

概要[編集]

七戸は平安時代後期には既に開かれていた。七戸の給主としては、14世紀はじめには北条氏の代官としての工藤氏の名が確認できるが、城の位置や築城年代は不祥である。北条氏が滅んだのち、七戸は伊達氏結城氏を経て建武2年(1335年)3月、八戸根城南部師行の弟政長の所領となる。七戸城はこの南部政長の築城と伝えられていたが、近年の考古学的調査の結果から、14世紀後半の南部政光によって築城されたとされている。南北朝時代には、八戸根城とともに南朝方の一大拠点として重きをなした。廃城後も七戸城の名は残り、三戸南部氏の一族が在城したが、寛文4年(1664年)からは城内に代官所が置かれた。明治2年(1869年)に七戸藩が創設され、藩庁がここに置かれた。

城内の構成[編集]

城は柏葉城とも呼ばれ、作田川和田川合流点付近の、北西から市街地へ延びる比高40mの洪積台地の先端を利用して造られている。遺構は本丸二の丸、北館、下館、宝泉館、西館、角館の7郭より成り、(指定面積は約9万5千m2)各郭には独立性が認められ、空堀、帯郭、腰郭、虎口、武者隠し等もみられる。天正19年(1591年)、城主七戸家国九戸政実の一揆(九戸政実の乱)に加担して滅び、翌年城は壊された。この時埋められた本丸、二の丸間の堀跡が平成8年確認された。現在、七戸城跡保存管理計画に基づき、北館の発掘調査を行ったが、出土遺物は15世紀のものが主で14世紀のものはまだ出土していない。

明治6年(1873年)本丸城門が町内の青岩寺に移築されている。 当初は二層の楼門建築だったが、大正12年(1923年)老朽化のため上層部が撤去され、間口も切り詰められた形状となった。

歴史[編集]

天正19年(1591年)城主七戸家国九戸政実の乱九戸城に籠城し、滅亡した。翌20年(1592年)「諸城破却書上」に「糠部郡之内 七戸 平城 破 信直抱 代官 横沢 左近」とあり、城は破却されたが、津軽に対する配慮から闕所地の七戸領は浅水城主南部信義の三男南部(南)直勝に与えられ、後に七戸氏の名跡を継がせ2300石を領知し家老職を世襲した。

3代目重信は南部氏27代、盛岡藩初代藩主南部利直の五男で、寛文4年(1664年)に本家29代、第3代盛岡藩藩主を継承、藩の直轄地となり城内に代官所が設置され、陪臣も南部家直臣に昇格し七戸御給人と称された。

元禄7年(1694年)重信の六男政信は、盛岡藩5代藩主南部行信は5000石を内分され幕府旗本寄合席として別家を立てる。

文化元年(1804年)8月、幕命による「郷村仮名付帳」の作成に際し、野辺地・七戸代官所が城郭に次ぐ「要害屋敷」と書き上げ幕府の承認を得た。

文政2年(1819年)、5代南部主税信鄰(麹町候)は、盛岡藩11代藩主南部利敬から6000石を加増され11000石の大名に列する。

安政5年(1858年)嫡子信誉は北方警備の功績により、城主格大名に昇格するが築城に至らなかった。

7代南部信民戊辰戦争に際し、奥羽越列藩同盟に参加して敗戦。家督を南部信方に譲り隠居する。

明治2年(1869年)に七戸藩が創設され、南部信民が七戸知藩事に任じられ、藩庁がここに置かれた。

明治6年(1873年)に廃城と決まった。

城跡[編集]

1941年昭和16年)12月13日に国の史跡に指定された。現在は、柏葉公園として整備されている。

画像[編集]

脚注[編集]

  1. a b 「七戸城跡」青森県公式HP
  2. ^ 「青森県遺跡地図」青森県公式HP

参考資料[編集]

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 2 青森県』角川書店、1985年12月1日。ISBN 4040010205
  • 西ヶ谷恭弘『国別 城郭・陣屋・要害・台場辞典』東京堂出版、2002年7月15日。ISBN 4-490-10605X

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

 熊本城 動画説明

 





波乱と栄華に満ちた「熊本城」400年のものがたり。

慶長12(1607)年、茶臼山と呼ばれた台地に加藤清正が当時の最先端技術と労力を投じた、名城熊本城が完成します。以後、熊本城は400年に亘る日本の様々な歴史の重要な舞台となっていきます。加藤清正から細川氏、宮本武蔵、谷干城など歴史に名を刻んだ歴史ドラマの主人公たちが繰り広げる熊本城400年の歴史をお楽しみ下さい。

熊本城紹介

Highlight of Kumamoto Castle

熊本城には、広大な敷地や独自の建築様式の中に江戸時代の藩主の暮らしぶりや、歴史を知る手がかりがたくさん残されています。また、築城の名手といわれた加藤清正がいたるところに盛り込んだ当時の土木と建築の最新技術も見ることができます。ゆっくりと時間をかけて見ると、さまざまな発見があります。詳しく見る

熊本城の歴史

History of Kumamoto Castle

熊本城は加藤清正の手によって、慶長12(1607)年茶臼山を中心に築城されました。
寛永9(1632)年には細川忠利が熊本藩主として入城しました。
廃藩置県後、熊本城には鎮西鎮台が置かれ、明治10(1877)年西南戦争の戦地となり、
開戦直前の火災により天守・本丸御殿一帯が焼失してしまいます。
第二次世界大戦後には市民をはじめ天守再建の気運が高まり、昭和35(1960)年に
大小天守が鉄骨鉄筋コンクリートで外観復元されました。
熊本城は、数多くの歴史の舞台となり、築城以来多くの人々を惹きつけ、熊本市民の心の拠り所となっています。詳しく見る

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