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2024年2月22日木曜日

志苔館

                     




志苔館

志苔館

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志苔館
北海道
志苔館
志苔館
城郭構造山城
天守構造なし
築城主小林氏
主な城主小林氏
廃城年1457年長禄元年)か
遺構曲輪土塁
指定文化財国の史跡
再建造物なし
位置北緯41度45分56.6秒 東経140度49分20.6秒
地図
志苔館の位置(北海道内)
志苔館
志苔館
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曲輪の遺構

志苔館(しのりたて)は、北海道函館市にあった中世城館(日本の城)。小林氏によって築かれたとされる道南十二館のひとつ。国の史跡に指定されている。

立地[編集]

西には旧志苔川があり、東は溪沢に連なっており、南方は海に面した丘陵上に立地する。

城主[編集]

出典は道南十二館の謎 p202-203、函館市史通説編第1巻 p335-336、p330-331より。

  • 初代 - 小林太郎左衛門尉良景 - 先祖は万里小路藤房に仕え、祖父の小林次郎重弘の時に蝦夷島(北海道)に渡った。
  • 二代 - 小林弥太郎良定
  • 三代 - 小林三郎右衛門良治

遺跡概要[編集]

1983年(昭和58年)から1985年(昭和60年)にかけて函館市教育委員会によって発掘調査が行われた。

館跡は、自然地形を活かし、四方に土塁薬研または箱薬研状の空堀が巡らされ、全体でほぼ長方形の形状を呈している。内部は東西約70-80メートル、南北約50-65メートルで、約4,100平方メートルの広さがあり、曲輪(くるわ)の内部では掘立柱建物跡や井戸が確認されている。土塁の高さは、北側で約4.0-4.5メートル、南側で約1.0-1.5メートルであり、土塁の外側にあたる北側と西側には幅約5-10メートルの空堀が設けられ、最も深い所で約3.5メートルの深さをもつ。

発掘調査では、15世紀前半ごろを主体とする青磁白磁珠洲焼越前焼古瀬戸などの陶磁器が出土している。これらの遺物の年代は『新羅之記録』に記された長禄元年のコシャマインの戦いにおける志苔館陥落の時期(1457年)と矛盾しない。

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(101番)に選定された。

史跡指定[編集]

1934年(昭和9年)8月9日、国の史跡に指定された[1]

腰曲輪、濠、溪沢全体に指定地が及ぶようにするため、1977年(昭和52年)4月27日に追加指定がなされている[1]

中国銭の大量出土[編集]

1968年、志苔館の南西方向100メートル地点から、埋納されたと推定される越前焼珠洲焼の大甕3個の中より計38万7,514枚[注釈 1]におよぶ、主として中国の銅銭が出土している。これは日本国内で1か所から発見された古銭としては最大級の量である。「北海道志海苔中世遺構出土銭」として国の重要文化財(考古資料)に指定され[2]市立函館博物館に所蔵されている。

年表[編集]

  • 1457年長禄元年)のコシャマインの戦いにて陥落
  • 1934年昭和9年)8月9日 - 国の史跡に指定
  • 1968年(昭和43年) - 中国銭が大量に出土する
  • 1977年(昭和52年)4月27日 - 国の史跡の範囲拡大
  • 1983年から1985年 - 函館市教育委員会によって発掘調査
  • 2017年平成29年)4月6日 - 続日本100名城(101番)に選定された

支館 [編集]

2館あり、狼煙場として、函館西部地区の箱館(宇須岸館)を向いていたと推定されている。[3]

  • 与倉前館 - 根崎町の根崎保育園付近にあった。塁跡遺構があったとされる。
  • 弥右衛門川館 - 高松町。痕跡はない。東西16m、南北15m。

所在地[編集]

  • 函館市志海苔町・赤坂町

交通手段[編集]

  • 函館バス下海岸線(91・91A・91C系統)[4]「志海苔」停留所下車。(徒歩約5分)

「湯倉神社前」停留所までは、函館市電湯の川線(湯の川停留場乗継)も利用可能。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 古銭の枚数について、文化庁の「国指定文化財等データベース」には「374,435枚」とある[2]が、「387,514枚」が正確な枚数。平成24年9月6日文部科学省告示第138号で数値が変更されている。

出典[編集]

  1. a b 志苔館跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  2. a b 北海道志海苔中世遺構出土銭 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  3. ^ 道南十二館の謎 p202
  4. ^ 函館バス時刻表2022年4月 函館バス 2022年 p155

参考文献[編集]

関連項目[編集]

四稜郭

 





四稜郭

四稜郭

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四稜郭
北海道
四稜郭土塁
四稜郭土塁
別名新台場、神山台場、新五稜郭
城郭構造稜堡式
天守構造なし
築城主蝦夷共和国
築城年明治2年(1869年)
主な改修者なし
主な城主蝦夷共和国
廃城年1869年
遺構土塁
指定文化財国の史跡[1]
位置北緯41度49分32.09秒 東経140度46分14.86秒
地図
四稜郭の位置(北海道南部内)
四稜郭
四稜郭
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四稜郭のステレオ空中写真(1976年) 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

四稜郭(しりょうかく)は、箱館戦争において蝦夷共和国(箱館政権)が、1869年明治2年)に五稜郭の北方(現在の北海道函館市陣川町)に築城した堡塁新台場神山台場新五稜郭などとも呼ばれる。国の史跡[1]

なお、北海道北斗市の松前藩戸切地陣屋跡(国指定史跡)も構造の観点から「四稜郭」と述べられることがある[2][3]

立地と概要[編集]

五稜郭を拠点とした榎本武揚率いる箱館政権が、その支城として、また北海道東照宮を守護する為に築いた。その構築された時期に関する詳しい資料はないが、『四稜郭史』(服部安正)にある古老の話などから、1869年の4月下旬頃に構築が始まったとされ、建設には城中から士卒が約200人、赤川・神山・鍛冶村から約100人が加わり、ほとんど昼夜の区別なく働いて数日で出来上がったという[4]

堡塁の形状は蝶が四方に羽を広げた形で、東西約100メートル、南北約70メートルの範囲に、幅5.4メートル、高さ3メートルの土塁を盛り、その周囲に幅2.7メートル、深さ0.9メートルの空堀を設けている[5]。南西側に門口があり、その後方に幅0.9メートルほどの通路が設けられている[6]。郭内の面積は約2,300平方メートルで、土塁の四隅には砲座が配置されているが建物はない[5]

建設を指揮したのは大鳥圭介らである[7]。設計者について、徳山藩に関連する『奥羽並蝦夷地出張始末』(岩崎季三郎・市立函館図書館蔵)では「仏人フリヨネー」(ジュール・ブリュネ大尉)としている[4]

四稜郭を構築した榎本軍側では構築当時より「四稜郭」と称していた[4]。一方、官軍側の記録では「神山台場」としているが、岡山藩福山藩に関連する記録では「神山新五稜郭」や「新五稜郭」と書かれている[4]

なお、四稜郭以外に当時造られた要塞としては川汲台場(現・函館市)や峠下台場(現・七飯町)などがある[8]

1869年5月11日の箱館総攻撃で権現台場とともに陥落した[9]。大鳥圭介の『幕末実戦史』の記述などから構築は未完成のまま官軍の攻撃を受けたものとみられている[4]

史跡と保存[編集]

箱館戦争の終結後は荒廃が進んでいたが[5]1934年昭和9年)1月22日に国の史跡に指定された[5][1]。旧亀田町によって1969年度(昭和44年度)から1972年度(昭和47年度)にかけて土塁の修復等の環境整備工事が実施された[5]。合併後も1990年(平成2年)から函館市による再整備が断続的に続けられている[5]

5月には、付近一帯はスズランの花畑となる。

2002年平成14年)5月26日NHK新・クイズ 日本人の質問』において「五稜郭を見るうえで重要なもの」として、四稜郭が紹介された。

脚注[編集]

  1. a b c 四稜郭 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  2. ^ 国指定史跡 史跡 松前藩戸切地陣屋跡”. 北斗市. 2024年1月22日閲覧。
  3. ^ 【知られざる北海道】vol.11 北斗市にある「四稜郭」を知っていますか?”. 北海道STYLE. 2024年1月22日閲覧。
  4. a b c d e 函館市史 別巻 亀田市編 四稜郭”. 函館市. 2024年1月22日閲覧。
  5. a b c d e f 史跡四稜郭”. 函館市. 2024年1月22日閲覧。
  6. ^ 土塁に囲まれた内枡形虎口になっている(八巻 2017, pp.121)。
  7. ^ 平井松午「幕末箱館における五稜郭および元陣屋の景観復原」『地理学論集』第89巻第1号、北海道地理学会、2014年、26-37頁。
  8. ^ 八巻 2017, pp.112-118
  9. ^ 塚越俊志「榎本武揚と幕府海軍」『弘前大学國史研究』第143巻、弘前大学、2017年、1-24頁。

参考文献[編集]

福山城(松前城)2回め

 







福山城(松前城)本丸御門

指定国指定
区分重要文化財
指定年月日昭和25年(1950)8月29日
所在地松前町字松城
時代近世
管理松前町

紹介文

福山城は、松前城とも呼ばれ、北方警備の重要性から幕府が特旨をもって築城を命じたもので、高崎藩の兵学者市川一学の設計により、嘉永3年(1850)に着工し、安政元年(1854)に完成した、我が国最北に位置する、最後の日本式城郭である。
明治8年までに、城内は開拓使の命によって取り壊しとなった。その際残された三層天守と本丸御門および東塀が昭和16年(1941)に国宝指定となった。しかし、昭和24年(1949)6月5日、役場火災の飛火によって天守・東塀は焼失し、本丸御門(大手門)を残すのみとなった。
福山城唯一の遺構となった本丸御門(大手門)は、昭和25年(1950)8月29日重要文化財に指定された。 切妻造り、銅板葺き、三間一戸両脇戸付き櫓門。南に面し、東方との三重櫓(天守)との間に塀が取りつけられている。

地図

参考

PDF『松前の文化財』(2011年松前町発行) (824.2KB)

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