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2024年4月28日日曜日

岡山城

 



フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(引用編集)

曖昧さ回避 この項目では、岡山県岡山市にあった岡山城について説明しています。その他の岡山城については「岡山城 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

曖昧さ回避 「石山城」はこの項目へ転送されています。大坂城の前身である、石山本願寺を守っていた城郭(石山本願寺城)については「石山本願寺」をご覧ください。

logo岡山城

(岡山県)

岡山城天守(外観復元)

岡山城天守(外観復元)

別名 烏城、金烏城

城郭構造 梯郭式平山城

天守構造 複合式望楼型4重6階(1597年築)

(鉄筋コンクリート造外観復元・1966年)

築城主 上神高直

築城年 1346年 - 1369年(正平年間)

主な改修者 宇喜多秀家、小早川秀秋、池田忠雄

主な城主 宇喜多氏、小早川氏、池田氏

廃城年 1873年(明治6年)

遺構 櫓、石垣、堀

指定文化財 国の重要文化財(月見櫓、西の丸西手櫓)

国の史跡

再建造物 外観復元天守・外観復元門・外観土塀

位置

北緯34度39分54.65秒 東経133度56分9.79秒座標: 北緯34度39分54.65秒 東経133度56分9.79秒


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岡山城の位置(岡山県内)岡山城岡山城

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オープンストリートマップに岡山城の地図があります。


岡山城の縄張り

1974年度・国土航空写真より

岡山城(おかやまじょう)は、備前国御野郡岡山[1](現・岡山県岡山市北区)にあった日本の城。国指定の史跡。別名は烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)[注釈 1]。


概要[編集]

戦国時代に、備前東部から興って、美作、備中東部まで勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われた。


岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設された。


当時、旭川河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大なデルタ地帯中央に「岡山」(柴岡山とも)、その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」(天満山とも)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されたとされる。その中の石山にあった石山城(いしやまじょう)に宇喜多直家が入城・改築し、後に子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造された。これが岡山城である。[2][3]


城の縄張は基本的には梯郭式となっており、三段の城郭配置が西側の一方だけに広がる平山城となっている。言いかえると本丸の北から東には郭の無い、非常に防備が薄い縄張である。そのため旭川の流路を変更し、天然の堀として東側の備えに利用したとされる。さらには郭の代りとして、「後園(後楽園)」が築かれたともされる。 天守は4重6階の複合式望楼型で、出入り口は付属している塩蔵に設けられている。特に初重平面形状が歪んだ多角形をしているため、同じく歪んだ多角形平面の天守台を持つ安土城天主を模したものではないかと言われているが、羽柴秀吉による大坂城天守を模しているという説もある。その外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう)」とも呼ばれ、同じ山陽道の隣県の「白鷺城(はくろじょう)」とも呼ばれる姫路城と対比されることもある。元禄時代の古地図からは、五重の濠に囲まれた城郭と、南北3.5km、東西1.3kmにおよぶ城下町の姿がうかがえる。


明治時代に御殿・櫓・門の大半が取り壊された。堀は内堀の一部を除いてほとんど埋められて現存する廓は本丸と後楽園だけになっているが、街路は江戸時代の位置を踏襲している。さらに第二次大戦中、空襲のため天守を焼失した。現在までに2つの櫓、本丸付近の石垣、内堀が残り、戦後に天守・不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部がコンクリート造で再建された。現存する月見櫓・西之丸西手櫓は国の重要文化財に指定され、「岡山城跡」として史跡にも指定されている。その他、京橋御門が岡山市南区小串に移築され現存している。城跡は「烏城公園」として整備される一方、二之丸跡にRSK山陽放送、林原美術館、岡山市民会館が、三之丸跡に岡山県庁、岡山県立図書館などの公共機関がある。内下馬門、内下馬門橋、太鼓櫓の木造復元計画があるが、予算の関係で天守、不明門、廊下門、六十一雁木上門、土塀の木造復元計画はない。


2020年東京オリンピックの聖火リレーでセレブレーション会場となった、 聖火ランナーは公募により1万人程度が選ばれた、聖火リレーについて、 組織委員会は スポンサー企業4社と各都道府県実行委員会が行ったランナー公募に延べ 53万5717件の応募があったと発表した [4]。


隣接する大名庭園・後楽園は、水戸・偕楽園、金沢・兼六園とともに、日本三名園として並び称される。


歴史[編集]

南北朝時代 - 安土桃山時代[編集]


平成5年の発掘調査で発見された宇喜多氏築城時の石垣

南北朝時代の正平年間(1346年 - 1369年)に、名和氏の一族上神高直が石山台(岡山)に城を築いたと、「備前軍記」に書かれているのが最初と伝えられている。その後およそ 150年間の城主は明らかではない。なおこの付近には摂関家領・鹿田荘の中心部があったとされ、旭川(鹿田川)河口の港町としても栄えていたとされる[注釈 2]。戦国時代の大永年間(1521年 - 1528年)には、金光氏が居城とし金川城主の松田氏に仕えていた。


元亀元年(1570年)、宇喜多直家が金光宗高を謀殺しこの地を支配した。直家は備前守護代浦上氏の一族浦上宗景の被官であったが、備前西部を中心に勢力を急速に伸張していた。天正元年(1573年)、直家はそれまでの居城である亀山城(沼城)から石山城に入城し、城の改築と城下町の形成を行った。この頃の石山城(岡山城)は、縄張が東西に走る連郭式であったと推定されている。直家は北方の山裾にあった西国街道を、城の南に沿うように付け替えて城下に導いた。そして備前福岡、備前西大寺などから商人を呼び寄せ、いわゆる城下町の整備を行うなど積極的に流通主導による経済振興とも言うべき政策をとった。信長が安土城を築城する3年前のことである。これは直家が幼少の頃に、備前福岡の商人に庇護を受けたと言われていることも無縁ではないとみられている。


なお主家である宗景の居城である天神山[注釈 3]は巨大なものではあるが天神山にある山城で、直家の水辺に近い小高い丘の石山城とは対照的である。天正3年(1575年)には、浦上宗景の兄・政宗の孫をおしたてて宗景を播磨へ放逐し、事実上の下克上を行いやがて備前、美作、さらに播磨、備中の一部を支配下に置いた[注釈 4]。


直家の子・宇喜多秀家は、豊臣政権下で父の遺領をほぼ継承し、57万4,000石の大大名となる。これに相応した城とするため天正18年 - 慶長2年(1590年 - 1597年)の8年間にわたる大改修が行われ、近世城郭としての体裁を整えた。秀家は「岡山」に本丸を構え、石山城の本丸を二之丸内郭に、二之丸を西之丸とし、そして内堀を挟んで二之丸、その西に三之丸の郭を整備した。これらは織豊系城郭に特徴的な高石垣の積まれた城である。本丸は本段、中の段、下の段に分かれた構造で、本段の北寄りに金箔瓦を使用した壮麗な4重6階の望楼型天守を建てた。そしてそのままでは本丸の東側の守りが極めて薄い構造となったため、旭川本流を城郭の北から東側に沿うように極端に寄り添わせる形とし、天然の堀としている。ただしこの付け替えによる明らかに不自然な形の流路は、城下に洪水を多発させる原因となり、やがて放水路としての百間川の整備へとつながる[注釈 5]。そして城を南から取り巻くように西国往来の道筋を変えて、直家時代の城下町を拡大整備し、引き続き領内の有力商人を勧誘して経済活動を発展させるよう努めた。築城には義父となった秀吉の意向が大いに働いていると言われている[注釈 6]。


こののち城は「岡山城」、城下町は「岡山」の呼称が定着した。


江戸時代[編集]


岡山城天守の古絵図


月見櫓(国の重要文化財)


西之丸西手櫓(国の重要文化財)

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の主力となった秀家は八丈島に流刑となり、宇喜多家は改易となった。代わって小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として入城した。秀秋は本丸中の段を拡幅し、三之丸の外側に15町余の外堀を掘り三之外曲輪の整備をして城下町の拡大を行った。この外堀工事に農民だけでなく武士も使役し20日で完成したため、「廿日堀、二十日堀(はつかぼり)」と呼ばれている[5]。慶長六年には、中の段南隅に沼城天守を移築したとされ、これは大納戸櫓と呼ばれ、岡山城最大の櫓で二層の大入母屋造りの上に望楼を乗せた形式の三層四階の櫓であった[6]。秀秋は2年後の慶長7年(1602年)10月に岡山で急死し、嗣子がなく小早川家は断絶した。


慶長8年、備前28万石は播磨姫路城主池田輝政の次男忠継に与えられたが、幼少(5歳)であったので兄の利隆が「備前監国」として代政した。利隆は「石山」の西端の西之丸を整備したと言われている[注釈 7]。慶長18年(1613年)に忠継は岡山城に入ったが、慶長20年(1615年)に死去した[注釈 8]。


元和元年(1615年)、忠継の弟・忠雄が淡路より31万5千石で入封した。幕府の格式に見合った城とするため、忠雄は本丸中の段を大幅に北側に拡張し、本段の御殿に加え新たに表書院も設けている[注釈 9]。また大手の南門を造り替え、城下の西端を限る用水路の西川を整備するなど、ここに岡山城の縄張りが完成する。重要文化財に指定されている月見櫓はこの頃の創建とされ、中の段の北西角の隅櫓で一部地下付き、本葺き、総白漆喰塗籠の壁仕上げの二階建てである。城外からは二層の望楼型、城内からは三層に見える。


江戸期の縄張は「岡山」に本丸、二之丸内郭(東南の郭)、「石山」付近に二之丸内郭(西の郭)、西の丸が置かれそれらの南に二之丸、その西南に三之曲輪[注釈 10]、中堀の外に三之曲輪の内、西に三之外曲輪の内と言う配置である。本丸には天守の他に3つの御殿、大納戸櫓を含む高層(3層以上)の櫓が9棟(城全体では11棟)、さらに2層の櫓、櫓門が多数あった。石山の二之丸内郭には池田家祖廟、西之丸に前藩主の隠居所がおかれ、二之丸内郭(東南の郭)、二之丸は上級武士の屋敷地であった。三之曲輪と三之曲輪の内の北側には西国往来が通り、町人地として領国経済の中心となっていた[注釈 11]。三之曲輪の内の南半分は小早川氏時代の武家地であり、三之外曲輪は武家地、外堀を隔てて寺町や下級武士の屋敷や町人町がさらに広がっていた。


寛永9年、(1632年)忠雄の子・光仲が因幡鳥取へ転封し、入れ代わって因幡鳥取から池田光政が31万5千石で入封した。光政は利隆の子であり、姫路城で生まれたが、父の死後元和元年(1615年)に鳥取城主となっていた。以後、幕末まで光政系池田氏の居城となる。


寛文6年(1669年)〜貞享3年(1686年)にかけて百間川の改修整備が実施され、貞享4年(1687年)からは光政の子・綱政により14年の歳月をかけて後楽園[注釈 12]を造営する。周囲を土塁と竹垣[注釈 13]で囲み、庭園の形をとるものの城を守る郭の役割を期待していたとされる。ともに郡代津田永忠によるものであり、永忠は閑谷学校、藩の新田開発などにも手腕を発揮した。


光政によって正保二年(1645年)に遷宮された東照宮(現在、玉井宮東照宮)が、岡山城の鎮守として存在する。この神社には岡山一の祭礼である東照宮御神幸がある。御神幸の際、岡山城まで御神幸の列が途切れ事無く続き、藩主の御拝礼の後、御還御していた祭礼である。


明治時代以降[編集]

明治2年(1869年)の版籍奉還により藩主・池田章政は岡山藩知事に任ぜられ、岡山城は藩の府城たる役割を終えて兵部省管轄、つまり存城となった。明治6年(1873年)の廃城令により順次建物の取り壊し・堀の埋め立てが行われていき、明治15年(1882年)頃までには、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなった。明治23年(1890年)、旧藩主池田章政に払い下げられた後、池田家は岡山県に提供し、明治29年(1896年)には本丸趾に県立岡山中学校が建てられた。随所にあった堀の埋め立ては何度かに分けて行われた。


こうして昭和初期頃までには城跡と見受けられるのは本丸を残すのみとなり、五重の濠に囲まれた巨大な城郭は市街地へと姿を変えた。


昭和時代[編集]

ここからは年表形式にて、主なできごとを紹介する。



岡山城の航空写真(1931年)

1931年(昭和6年) - 天守が国宝に指定。

1945年(昭和20年) - 6月29日の岡山大空襲で天守・石山門を焼失。

1950年(昭和25年) - 文化財保護法の施行により、焼け残った月見櫓・西之丸西手櫓が重要文化財に指定。

1964年〜1966年(昭和39年〜昭和41年) - 天守を鉄筋コンクリートにて再建。同時に不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部も再建。現在の天守は瓦に桐紋が使われるなど、秀家当時のイメージで再建されている。なお、天守再建時に本来の出入り口である塩蔵の出入り口の他に、天守台に正面出入り口としてもう一つ出入り口を設けた。現在はこちらから直接天守地階に入るようになっている。

1987年(昭和62年) - 「岡山城跡」として史跡に指定。

平成時代[編集]

1996年(平成8年) - 築城400年記念事業として、創建当時の天守には金の鯱が載っており金烏城と呼ばれていたことから金鯱を施す。

2006年(平成18年) - 日本100名城(70番)に選定。

2014年(平成26年) - 1月21日までに本丸下の段での発掘調査にて、軍事倉庫として使われたとみられる「槍櫓(やりやぐら)」と「旗櫓(はたやぐら)」の遺構が出土、「御城内御絵図(おんじょうないおんえず)」(1700年作製)にはない石段跡も見つかる[7]。

令和時代[編集]

2021年(令和3年)7月30日から2022年(令和4年)11月まで耐震補強などを含めた「令和の大改修」が行われている[8][9]。


天守[編集]


焼失前の岡山城天守(1934年(昭和9年))


焼失前の岡山城天守


再建天守

岡山城天守は国宝に指定されていたが、1945年(昭和20年)の岡山空襲で焼失してしまった[10]。


外観復元天守は1966年(昭和41年)に完成したが、これは後に建築家となる岡山市出身の早稲田大学理工学部建築学科の学生が戦前に卒業論文のためにまとめていた実測図がもとになっている為、初代天守の内部構造は分かっている。[10][11]。ただし、再建天守と焼失以前の岡山城について、外観は変わっていないとする資料と外観にも違いがあるとする資料に分かれている[12]。また、外観の色に関する記録は残っておらず、再建時に市がどのような判断をしたかや、1996年(平成8年)の初めての塗り直し時の塗料の基準もよくわかっていない[10]。岡山城は烏城と呼ばれているが、外観の色に関する資料は永山卯三郎の「県通史」に簡単な記述がある程度とされる[10]。又、名古屋城のように古写真も残っていて消失前の天守の内部には他の城の天守には見られない御殿のような書院造りの部屋もあった。


岡山城天守は2022年(令和4年)11月まで大改修が進められている[10]。外観の塗料については、松本城や熊本城などでの視察も行われ、光沢によっては日光の反射で白く見えてしまうことも考慮した上で決定されることになった[10]。


建造物[編集]

現存する建造物[編集]

月見櫓 - 国の重要文化財、元和・寛永年間(1615-1632年)築・現存。本丸の北西隅に建つ。周辺には、土塀の礎石に狭間が作られており、当時の最新式の設備と言われる。

天守 - 外観復元

不明門 - 外観復元。本段への入口になる門。天守と同時に鉄筋コンクリートで復元された。

廊下門 - 外観復元

六十一雁木上門 - 復元

旧天守礎石 - 移設


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岡山県
岡山城天守(外観復元)
岡山城天守(外観復元)
別名烏城、金烏城
城郭構造梯郭式平山城
天守構造複合式望楼型4重6階(1597年築)
鉄筋コンクリート造外観復元・1966年
築城主上神高直
築城年1346年 - 1369年正平年間)
主な改修者宇喜多秀家、小早川秀秋、池田忠雄
主な城主宇喜多氏、小早川氏、池田氏
廃城年1873年(明治6年)
遺構櫓、石垣、堀
指定文化財国の重要文化財(月見櫓、西の丸西手櫓)
国の史跡
再建造物外観復元天守・外観復元門・外観土塀
位置

北緯34度39分54.65秒 東経133度56分9.79秒座標北緯34度39分54.65秒 東経133度56分9.79秒

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岡山城の位置(岡山県内)
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岡山城の縄張り
1974年度・国土航空写真より

岡山城(おかやまじょう)は、備前国御野郡岡山[1](現・岡山県岡山市北区)にあった日本の城。国指定の史跡。別名は烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)[注釈 1]

概要[編集]

戦国時代に、備前東部から興って、美作備中東部まで勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏池田氏により整備、拡張が行われた。

岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設された。

当時、旭川河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大なデルタ地帯中央に「岡山」(柴岡山とも)、その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」(天満山とも)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されたとされる。その中の石山にあった石山城(いしやまじょう)に宇喜多直家が入城・改築し、後に子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造された。これが岡山城である。[2][3]

城の縄張は基本的には梯郭式となっており、三段の城郭配置が西側の一方だけに広がる平山城となっている。言いかえると本丸の北から東には郭の無い、非常に防備が薄い縄張である。そのため旭川の流路を変更し、天然の堀として東側の備えに利用したとされる。さらには郭の代りとして、「後園(後楽園)」が築かれたともされる。 天守は4重6階の複合式望楼型で、出入り口は付属している塩蔵に設けられている。特に初重平面形状が歪んだ多角形をしているため、同じく歪んだ多角形平面の天守台を持つ安土城天主を模したものではないかと言われているが、羽柴秀吉による大坂城天守を模しているという説もある。その外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう)」とも呼ばれ、同じ山陽道の隣県の「白鷺城(はくろじょう)」とも呼ばれる姫路城と対比されることもある。元禄時代の古地図からは、五重の濠に囲まれた城郭と、南北3.5km、東西1.3kmにおよぶ城下町の姿がうかがえる。

明治時代に御殿・櫓・門の大半が取り壊された。堀は内堀の一部を除いてほとんど埋められて現存する廓は本丸と後楽園だけになっているが、街路は江戸時代の位置を踏襲している。さらに第二次大戦中、空襲のため天守を焼失した。現在までに2つの櫓、本丸付近の石垣、内堀が残り、戦後に天守・不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部がコンクリート造で再建された。現存する月見櫓・西之丸西手櫓は国の重要文化財に指定され、「岡山城跡」として史跡にも指定されている。その他、京橋御門が岡山市南区小串に移築され現存している。城跡は「烏城公園」として整備される一方、二之丸跡にRSK山陽放送林原美術館岡山市民会館が、三之丸跡に岡山県庁岡山県立図書館などの公共機関がある。内下馬門、内下馬門橋、太鼓櫓の木造復元計画があるが、予算の関係で天守、不明門、廊下門、六十一雁木上門、土塀の木造復元計画はない。

2020年東京オリンピックの聖火リレーでセレブレーション会場となった、 聖火ランナーは公募により1万人程度が選ばれた、聖火リレーについて、 組織委員会は スポンサー企業4社と各都道府県実行委員会が行ったランナー公募に延べ 53万5717件の応募があったと発表した [4]

隣接する大名庭園後楽園は、水戸偕楽園金沢兼六園とともに、日本三名園として並び称される。

歴史[編集]

南北朝時代 - 安土桃山時代[編集]

平成5年の発掘調査で発見された宇喜多氏築城時の石垣

南北朝時代正平年間(1346年 - 1369年)に、名和氏の一族上神高直が石山台(岡山)に城を築いたと、「備前軍記」に書かれているのが最初と伝えられている。その後およそ 150年間の城主は明らかではない。なおこの付近には摂関家領・鹿田荘の中心部があったとされ、旭川(鹿田川)河口の港町としても栄えていたとされる[注釈 2]。戦国時代の大永年間(1521年 - 1528年)には、金光氏が居城とし金川城主の松田氏に仕えていた。

元亀元年(1570年)、宇喜多直家が金光宗高を謀殺しこの地を支配した。直家は備前守護代浦上氏の一族浦上宗景の被官であったが、備前西部を中心に勢力を急速に伸張していた。天正元年(1573年)、直家はそれまでの居城である亀山城(沼城)から石山城に入城し、城の改築と城下町の形成を行った。この頃の石山城(岡山城)は、縄張が東西に走る連郭式であったと推定されている。直家は北方の山裾にあった西国街道を、城の南に沿うように付け替えて城下に導いた。そして備前福岡備前西大寺などから商人を呼び寄せ、いわゆる城下町の整備を行うなど積極的に流通主導による経済振興とも言うべき政策をとった。信長が安土城を築城する3年前のことである。これは直家が幼少の頃に、備前福岡の商人に庇護を受けたと言われていることも無縁ではないとみられている。

なお主家である宗景の居城である天神山[注釈 3]は巨大なものではあるが天神山にある山城で、直家の水辺に近い小高い丘の石山城とは対照的である。天正3年(1575年)には、浦上宗景の兄・政宗の孫をおしたてて宗景を播磨へ放逐し、事実上の下克上を行いやがて備前、美作、さらに播磨、備中の一部を支配下に置いた[注釈 4]

直家の子・宇喜多秀家は、豊臣政権下で父の遺領をほぼ継承し、57万4,000石の大大名となる。これに相応した城とするため天正18年 - 慶長2年(1590年 - 1597年)の8年間にわたる大改修が行われ、近世城郭としての体裁を整えた。秀家は「岡山」に本丸を構え、石山城の本丸を二之丸内郭に、二之丸を西之丸とし、そして内堀を挟んで二之丸、その西に三之丸の郭を整備した。これらは織豊系城郭に特徴的な高石垣の積まれた城である。本丸は本段、中の段、下の段に分かれた構造で、本段の北寄りに金箔瓦を使用した壮麗な4重6階の望楼型天守を建てた。そしてそのままでは本丸の東側の守りが極めて薄い構造となったため、旭川本流を城郭の北から東側に沿うように極端に寄り添わせる形とし、天然の堀としている。ただしこの付け替えによる明らかに不自然な形の流路は、城下に洪水を多発させる原因となり、やがて放水路としての百間川の整備へとつながる[注釈 5]。そして城を南から取り巻くように西国往来の道筋を変えて、直家時代の城下町を拡大整備し、引き続き領内の有力商人を勧誘して経済活動を発展させるよう努めた。築城には義父となった秀吉の意向が大いに働いていると言われている[注釈 6]

こののち城は「岡山城」、城下町は「岡山」の呼称が定着した。

江戸時代[編集]

岡山城天守の古絵図
月見櫓(国の重要文化財)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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岡山城天守(外観復元)
岡山城天守(外観復元)
別名烏城、金烏城
城郭構造梯郭式平山城
天守構造複合式望楼型4重6階(1597年築)
鉄筋コンクリート造外観復元・1966年
築城主上神高直
築城年1346年 - 1369年正平年間)
主な改修者宇喜多秀家、小早川秀秋、池田忠雄
主な城主宇喜多氏、小早川氏、池田氏
廃城年1873年(明治6年)
遺構櫓、石垣、堀
指定文化財国の重要文化財(月見櫓、西の丸西手櫓)
国の史跡
再建造物外観復元天守・外観復元門・外観土塀
位置

北緯34度39分54.65秒 東経133度56分9.79秒座標北緯34度39分54.65秒 東経133度56分9.79秒

地図
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岡山城の位置(岡山県内)
岡山城
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岡山城の縄張り
1974年度・国土航空写真より

岡山城(おかやまじょう)は、備前国御野郡岡山[1](現・岡山県岡山市北区)の石山にあった石山城(いしやまじょう)に宇喜多直家が入城・改築し、後に子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造された。これが岡山城である。[2

2021年令和3年)7月30日から2022年(令和4年)11月まで耐震補強などを含めた「令和の大改修」が行われている[8][9]

天守[編集]

焼失前の岡山城天守(1934年昭和9年))
焼失前の岡山城天守
再建天守

岡山城天守は国宝に指定されていたが、1945年(昭和20年)の岡山空襲で焼失



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鬼ノ城 山城です、NHKでは最強の城という。

 



『ウィキペディア(Wikipedia)』(引用編集)


画像提供依頼:ノートに記載の画像提供をお願いします。(2016年8月)

logo鬼ノ城

(岡山県)

角楼(左)と西門(右)を学習広場より望む

角楼(左)と西門(右)を学習広場より望む

城郭構造 古代山城(神籠石式山城)

築城主 大和朝廷

築城年 7世紀後半

遺構 城門、角楼、石塁、土塁、水門、敷石

指定文化財 国の史跡「鬼城山」

再建造物 城門、角楼、土塁

位置 北緯34度43分35.53秒 東経133度45分46.49秒座標: 北緯34度43分35.53秒 東経133度45分46.49秒

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鬼ノ城の位置(岡山県内)鬼ノ城鬼ノ城

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鬼ノ城の位置(日本内)鬼ノ城

鬼ノ城


鬼ノ城遠望(水城状遺構より)


西門(城外より)


水城状遺構を望む(城内より)

鬼ノ城(きのじょう)は、岡山県総社市の鬼城山(きのじょうさん)に築かれた[1]、日本の古代山城(神籠石式山城)。城跡は国の史跡「鬼城山」(1986年(昭和61年)3月25日指定)の指定範囲に包含される[2]。


概要[編集]

大和朝廷は倭(日本)の防衛のために、対馬~畿内に至る要衝に様々な防御施設を築いている[3]。鬼ノ城は史書に記載が無く、築城年は不明であるが、発掘調査では7世紀後半に築かれたとされている[4]。


鬼ノ城は、吉備高原の南端に位置し、標高397メートルの鬼城山の山頂部に所在する。すり鉢を伏せた形の山容の7〜9合目の外周を、石塁・土塁による城壁が鉢巻状に2.8キロメートルに渡って巡る。城壁で囲まれた城内の面積は、約30ヘクタールである。城壁は土塁が主体で、城門4か所・角楼・水門6か所などで構成される[5][6]。そして、城壁を保護するための敷石の発見は、国内初のことであった。城内では、礎石建物跡7棟・掘立柱建物跡1棟・溜井・烽火場・鍛冶遺構などが確認されている[7]。鬼ノ城は、山城に必要な設備がほぼ備わり、未完成の山城が多い中で稀な完成した古代山城とされている[8]。


鬼ノ城は、「歴史と自然の野外博物館」の基本理念に基づき、西門と角楼や土塁が復元された[9]。その他、城門・水門・礎石建物跡・展望所・見学路などの整備とともに、「鬼城山ビジターセンター」と駐車場を整え、「史跡・自然公園」として一般公開されている。


城壁は、幅7m×高さ6〜7mの版築土塁が全体の8割強を占める。しかし、城壁最下の内外に1.5m幅の敷石が敷設されており、石城の趣が強い[10]。そして、防御正面の2か所の張り出しは、石垣で築かれている。流水による城壁の崩壊を防止するための水門が、防御正面に集中する。城壁下部の2〜3mに石垣を築いて水口を設け、通水溝の上部を土塁で固めた水門が4か所ある[注 1]。他の2か所は、石垣の間を自然通水させる浸透式の水門である[11]。また、水門の城内側の2か所の谷筋で、土手状遺構が発掘された。土石流や流水から城壁を守るためと、水を確保するための構築物である[4]。そして、第0水門の城壁下部で、マス状の石囲の浅い貯水池が発掘され、多くの木製品が出土した[12]。


城門は、防御正面に東門・南門・西門、防御背面に北門の4ヵ所が開く。主の進入路と思われる場所に西門があり、西門の北側約60メートルの隅かどに角楼[注 2]がある。各々の城門は、門礎を添わせた掘立柱で、門道は石敷きである。西門は平門構造で、他の門は懸門構造[注 3]である。東門は間口1間×奥行2間で6本の丸柱構造。南門は間口3間×奥行2間で12本の角柱構造。中央の1間が出入り口で、本柱は一辺が58cm角である。西門は南門と同じ柱配列で、本柱は一辺が60cm角である。そして、門道の奥に4本柱の目隠し塀がある[注 4]。北門は間口1間×奥行3間の8本の柱構造。本柱は一辺が55cmの角柱で、他は丸柱である。そして、門道に排水溝が埋設されている[注 5]。また、西門周辺と角楼に至る土塁上面の柱穴の並びは、板塀のための柱跡とされている[11]。


城内の中心部には、食糧貯蔵の高床倉庫と思われる礎石総柱建物跡5棟、管理棟と思われる礎石側柱建物跡2棟が発掘された。また、12基の鍛冶炉の発掘は、鉄器製作の鍛冶工房とされ、羽口・鉄滓・釘・槍鉋・砥石などが出土する。他の出土遺物は、須恵器の円面硯・甕・壺・食器類に加え、土師器の製塩土器・椀・皿などがある[4]。


鬼ノ城の南麓の低丘陵が南北から突出して狭くなった田園地帯に、水城状遺構がある。版築状の土塁で、長さ約300m×高さ約3m×基底部幅約21mを測り、土塁の上部に人々が集住する。水城と大野城の関係と同様に、城への進入路を遮断した軍事施設[注 6]とされている[13]。


瀬戸内海は、いにしえから海外交流交易の主海路である。東端の難波津(港)の西方、約180キロメートルに吉備津(港)は[注 7]位置する。吉備津の西方、約240キロメートルに那大津(港)の博多湾がある。吉備津は、東西航路のほぼ中間点に位置する。鬼ノ城の山麓一帯は、勢威を誇った古代吉備の中心部であり、鬼ノ城は吉備津から約11キロメートルである[14]。


鬼ノ城は、いにしえから吉備津彦命による温羅退治の、伝承地として知られていた。苔むした石垣が散在する状況から、城跡らしいと判断され、「キのシロ」と呼んでいた。「キ」は、百済の古語では城を意味し、後に「鬼」の文字をあてたにすぎない。「鬼ノ城」は「シロ」を表す、彼の地と此の地との言葉を重ねた名称である[14]。


礎石建物群の周辺では、仏教に関わる瓦塔・水瓶・器などの遺物が出土している。鬼ノ城の廃城後の飛鳥時代から平安時代にかけて、山岳寺院が営まれている[4]。


鬼城山の山頂では、眼下に総社平野・岡山平野西部・岡山市街が一望できる。児島半島の前方は瀬戸内海、海の向こうの陸は香川県である。坂出市の「讃岐城山城」と高松市の「屋嶋城」が視野[注 8]に入る[11]。


関連の歴史[編集]

『日本書紀』に記載された白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通り。


天智天皇2年(663年):白村江の戦いがあった。

天智天皇3年(664年):対馬島・壱岐島・筑紫国などに防人と烽(とぶひ)を配備し、筑紫国に水城を築く。

天智天皇4年(665年):長門国に城を築き、筑紫国に大野城と基肄城を築く。

天智天皇6年(667年):大和国に高安城・讃岐国に屋嶋城・対馬国に金田城を築く。この年、中大兄皇子は大津に遷都し、翌年の正月に天智天皇となる。

調査・研究[編集]

遺構に関する内容は、概要に記述の通り。


考古学的研究は、1971年(昭和46年)の高橋護の踏査による、土塁の列石と水門の発見を[15]嚆矢とする[5]。1978年(昭和53年)、山陽放送25周年記念事業として、「鬼ノ城学術調査団」による、初の学術調査が[16]実施された[5]。

発掘調査は、1994年(平成6年)から総社市教育委員会で開始された。成果報告は、『鬼ノ城 角楼および西門の調査』、1997年、『鬼ノ城 南門跡ほかの調査』、1998年、『鬼ノ城 西門跡および鬼城山周辺の調査』、1999年、『鬼ノ城 登城道および新水門の調査』、2001年、で報告されている。また、総社市の鬼城山史跡整備事業に伴う発掘調査が継続された。成果報告は、『古代山城 鬼ノ城』、2005年、『古代山城 鬼ノ城 2』、2006年、で報告されている。そして、城内の発掘調査は、1999年(平成11年)から岡山県教育委員会で開始された。成果報告は、『国指定史跡 鬼城山』、2006年、『史跡 鬼城山 2』、2013年、で報告されている。

防衛体制の整備は、軍事上の重要性や各地域の事情から、築城時期に遅速があったと思われる。現在の出土遺物を見る限り、鬼ノ城は飛鳥Ⅳ期が始期であり、7世紀第4四半期頃から8世紀初頭にかけて機能し、きわめて短期間にその使命を終えたと考える[17]。

鬼ノ城は、地元に定着した朝鮮半島系の人達が動員され、他地域にないような古代山城を造ったと思われる。また、発掘された土器を見れば、667年頃の築造はあり得ると思われる[18]。

九州管内の城も、瀬戸内海沿岸の城も、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である[19]。

1898年(明治31年)、高良山の列石遺構が学会に紹介され、神籠石の名称が定着した[注 9]。そして、その後の発掘調査で城郭遺構とされた。一方、文献に記載のある屋嶋城などは、「古代山城」の名称で分類された。この二分類による論議が長く続いてきた。しかし、近年では、学史的な用語として扱われ[注 10]、全ての山城を共通の事項で検討することが定着してきた。また、日本の古代山城の築造目的は、対外的な防備の軍事機能のみで語られてきたが、地方統治の拠点的な役割も認識されるようになってきた[20]。

その他[編集]

鬼ノ城は、2006年4月6日に日本城郭協会が選定した、日本100名城(69番)に選定されている。

1990年、史跡「鬼城山」の指定地が公有化された。城内域の70%を岡山県が所有し、外郭線の下方を含む他の面積を総社市が所有する[5]。

城内の試掘調査に先立ち、地元住民他の湿地の自然保護の要望に対し、岡山県と総社市の教育委員会を交えて「文化財保護と自然保護」の調整が行われた[21]。

鬼城山の森林植生は健全なアカマツ林であり、特異な事例と言える[7]。

現地情報[編集]

城跡は、終日、無料公開であるが夜間照明はない。鬼城山ビジターセンターには、約70台の無料の駐車場が整備されて、飲料水の自販機は設置されている。その他の現地情報は、外部リンクの「鬼城山ビジターセンター」などを参照のこと。


ギャラリー[編集]

角楼(左)と西門(右)を学習広場より望む
角楼(左)と西門(右)を学習広場より望む
城郭構造古代山城神籠石式山城
築城主大和朝廷
築城年7世紀後半
遺構城門、角楼、石塁、土塁、水門、敷石
指定文化財国の史跡「鬼城山」
再建造物城門、角楼、土塁
位置北緯34度43分35.53秒 東経133度45分46.49秒座標北緯34度43分35.53秒 東経133度45分46.49秒
地図
鬼ノ城の位置(岡山県内)
鬼ノ城
鬼ノ城
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鬼ノ城の位置(日本内)
鬼ノ城
鬼ノ城
鬼ノ城遠望(水城状遺構より)
西門(城外より)

ギャラリー[編集]



写真を入れ直すことにしたので未完成隣修正することにした





水城状遺構を望む(城内より)





写真を入れ直すことにしたので未完成隣修正することにした





水城状遺構を望む(城内より)




鬼ノ城(きのじょう)は、岡山県総社市の鬼城山(きのじょうさん)に築かれた[1]日本古代山城神籠石式山城)。城跡は国の史跡「鬼城山」(1986年(昭和61年)3月25日指定)の指定範囲に包含される[2]

西門(城内より)

西門(城内より

 

角楼(城外より)

角楼(城外より)

 

北門(城外より)

北門(城外より)

 

屏風折れの石垣

屏風折れの石垣

 

第二水門

第二水門

 

水城状遺構を望む

水城状遺構を望む

赤穂城 討ち入りで有名な赤穂ろうし

 




赤穂城





出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(引用編集)

曖昧さ回避 映画については「赤穂城 (1952年の映画)」をご覧ください。

logo赤穂城

(兵庫県)

大手門(高麗門)二層隅櫓[4]

大手門(高麗門)二層隅櫓[4]

別名 加里屋城[5]

城郭構造 変形輪郭式海岸平城

天守構造 建造されず

築城主 浅野長直

築城年 1648年(慶安元年) - 1661年(寛文元年)

主な改修者 浅野長直

主な城主 浅野家、永井家、森家

廃城年 1873年(明治6年)

遺構 石垣、堀、本丸庭園、二之丸庭園、門跡

指定文化財 国史跡、国名勝(旧赤穂城庭園 本丸庭園・二之丸庭園)

再建造物 櫓・門、二之丸庭園(復元中)

位置 北緯34度44分44.41秒 東経134度23分20.34秒座標: 北緯34度44分44.41秒 東経134度23分20.34秒

地図

赤穂城の位置(兵庫県内)赤穂城赤穂城

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赤穂城(あこうじょう)は、兵庫県赤穂市にある日本の城。江戸時代は赤穂藩(加里屋藩[6])の藩主が暮らした城。城郭は国の史跡[7]に、本丸庭園と二之丸庭園は名勝[8]に指定されている。日本100名城、日本の歴史公園100選にも選定されている。


南から本丸(1)と本丸門(B)、それを囲む二之丸(2)、大手門(A)を抜けると三之丸(3)

本丸(1)を囲む二之丸(2)と隣接する三之丸(3)。大手門(A=北)を通り、本丸門(B=南)を抜けると本丸に着く。


本丸南の石垣と堀

概要[編集]

江戸時代、赤穂藩の政庁が置かれた。


赤穂城の前身となる城郭は、池田長政が慶長5年(1600年)に築城したと伝わり、後世に「掻上城」(かきあげじょう)と呼ばれた[9]。これは絵図や発掘調査から、遺構が現存する後世の赤穂城本丸と二之丸とほぼ同じ位置に存在したことが明らかになっている[9][10]。その後も池田家に赤穂郡代として仕えた垂水半左衛門勝重や、赤穂藩主となった池田政綱、池田輝興によって改修がなされたものの、簡略な城郭であったとされる[11]。


正保2年(1645年)に浅野長直が赤穂へ入封すると、慶安元年(1648年)に築城願を幕府へ提出、同年に築城に着手した。これが現在の赤穂城であり、元和偃武の後に築城の始まった全国的にも珍しい城郭として著名である。現在では海岸線から離れているが、築城当時は赤穂城のすぐ南側まで海が入り込んでいたことから、海岸平城に分類される。縄張りは変形輪郭式。本丸と二之丸は、本丸の周囲を二之丸が取り囲む「輪郭式」に配され、その北側の三之丸は二之丸北辺にとりつくように「梯郭式」に配置されている。銃砲戦を意識した設計となっており、十字砲火が可能なように稜堡に似た「横矢掛かり」や「横矢枡形」が数多く用いられている。縄張りは赤穂浅野家初代長直の時代、浅野家に仕えた甲州流兵学者の近藤正純によってなされた[9][11]。


またこのとき赤穂藩に仕えていた軍学者の山鹿素行が、承応2年(1653年)に築城中であった赤穂城の縄張りについて助言した。これにより二の丸門周辺を手直ししたと伝わり、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている[12]。


最終的に寛文元年(1661年)[9]に着手から13年かかって完成し、10の隅櫓(すみやぐら)、門が12基、曲輪(くるわ)の延長は2847mに及んだ[13]。本丸には築城時に設置された天守台が残存するが、江戸時代を通じて天守そのものは建築されなかった。このことについて城郭研究家の加藤理文は、天守を築ける天守台を持つことが優先され、また天守あるいは天守台を持つことが家の格式を示す典拠としている[14]。


明治時代前期に廃城されると建物は破却、一部の石垣と堀のみを残し、土地の大部分は民間へ払い下げられて田畑や宅地に転用された。本丸跡は小学校ほか、公共施設の用地に当てた。旧制赤穂中学が1928年(昭和3年)に設けられて戦後は学制改革を受けて兵庫県立赤穂高校と称し、1981年(昭和56年)まで西洋風の鉄筋コンクリート校舎が存在していた[10]。


大手隅櫓、大手門(高麗門)は1955年(昭和30年)に古写真[15]を参考に再建築されている[9]。1971年(昭和46年)に赤穂城跡が国史跡の指定を受ける[16]と、門・塀・庭園が徐々に再建され、1995年度以降は二之丸庭園の復元整備が段階的に継続している[17]。本丸には本丸門や本丸御殿の間取りを示し、発掘調査で確認された庭園などが復元整備されており、その規模や当時の暮らしぶりの一端を窺うことができる。


上水道[編集]

赤穂城は海岸に近く標高がほぼ1m[6]と低く、堀の水や井戸水には海水が混じり飲用に適さなかった。そのため、熊見川(現・千種川)の上流に井関と水路を建設して上水道を敷設し、城内のみならず城下各戸にも給水したのは藩主・池田家が治めた1616年(元和2年)である。着工の1614年(慶長19年)から指揮は前出の代官(郡代)垂水勝重がとり、山に取水トンネルを掘ると(切山隧道)、熊見川の水を導水路で引いた。これは「旧赤穂上水道」と呼ばれ[18] 、日本三大上水道の一つに数える説もあり[19]、2003年には城下の居住地区で発掘が進むと、現在の地表(標高2m強)から1mほど地下に江戸時代の生活面が確認された[6]。そのさらに下層は1600年代前半に相当する地層(第3遺構面)で、そこから竹を加工した管や木造の桝(ます)が掘り出され、江戸時代の浅野氏治世以前に、上水道システムがあったと判明した。当代の池田藩主(政綱と輝興父子)は旧城内ばかりか、城を見上げる町内へも給水網を整備したことがわかった[6]。この上水道の遺構は整備保存され、歴史的な観光スポットとして公開している[注釈 1]。


赤穂城は浅野氏の「元禄赤穂事件」で有名だが、池田氏にも輝興が狂乱し正室などを殺す「#正保赤穂事件」、赤穂城を預かった龍野藩脇坂氏時代にも赤穂城に在番した重臣(脇坂左次兵衛)が突如、乱心して同僚を斬り殺す「#脇坂赤穂事件」[注釈 2]、森氏時代にも家老の藩政の私物化を疑い、攘夷派の志士たちが森主税(可彝)を暗殺した「#文久赤穂事件」が起きた。


歴史[編集]

加里屋城・大鷹城時代[編集]

大鷹城[21]は1452~1455年(享徳年間)、岡豊前守光広が加里屋に「古城」を築城[22][要ページ番号]し、この地で初の築城となる[要出典]。赤穂に生駒親正が伊勢国神戸から1585年(天正14年)に入府し、石高は桃山・江戸期を通じて当藩最大の6万石[23][要文献特定詳細情報]を与えられたが1586年(天正15年)には讃岐に移され、赤穂一郡は宇喜多秀家の所領となる。「宇喜多秀家士帳」に赤穂の石高・居城の記載が無いことから[要出典]、他郡からの間接統治の可能性も示唆される[24][要文献特定詳細情報][25][要ページ番号]。宇喜多氏は1600年(慶長5年)に関ヶ原の合戦により改易・流罪となり、姫路藩主・池田輝政の弟の長政が赤穂領主に任ぜられると、「掻上城」を赤穂郡加里屋に築城[22]し、これが赤穂城の前身となる。輝政の次男で備前岡山藩主・忠継の所領となった1613年(慶長18年) 、城に一重の堀・石垣・櫓・門を造営[22]、忠継の弟・政綱は3万5000石を与えられ1615年(元和元年)に赤穂藩が立藩し、御殿を建てる。その政綱が嗣子なく1631年(寛永8年)に死去すると、弟の輝興が入封してさらに櫓・馬屋を造った。狂乱し刃傷沙汰の咎で正保2年に改易(正保赤穂事件)され(1645年)、水谷勝隆(備中松山藩)の一時預かりとなった城は同年、浅野長直を5万3000石で迎える。


赤穂城時代[編集]

近世の城郭建設のため、近藤正純が1646年(正保3年)に設計図を作成[要出典]し、石材採掘にも取り掛かる。幕府に築城計画を提出した1648年(慶安元年6月17日、新暦8月5日)[9]、同年中に城作りが始まる。赤穂藩主・浅野長直は1652年(承応元年)、山鹿素行を赤穂に招き、7ヵ月滞在した山鹿は二の丸周辺の設計を助言した。[要文献特定詳細情報] ただ、城の北に大手門と道(現在はJR播州赤穂駅に通じる)、南に流水(加里屋川を望む水手門)、西に緑地(庭園)、東に天守台[注釈 3]があり、山鹿流の縄張り [26]とは異なっている。


赤穂城は1661年(寛文元年)に完成し、やがて3代浅野長矩の弟・長広に播磨国赤穂郡の新田3000石を分与、旗本の寄合に列するのは1694年(元禄7年)である。長矩が勅使饗応役に任ぜられ、1701年(元禄14年)に江戸城中で吉良義央に斬りつけて刃傷事件を起こすと浅野氏は改易となる。城の明け渡しが行なわれるが、これ際して幕府へ赤穂城内の備品・武具の数が報告された。赤穂藩5万石において、長槍50本、火縄銃50丁とその銃弾2000発、弓500張とその矢2000本、足軽用具足100領、門番用具足200領が記録されている。江戸時代の城にどれほどの武具の蓄えがあったのかを知る事ができる数少ない例である[27]。翌元禄15年、家臣による吉良邸討ち入りが起こった(元禄赤穂事件)。。


浅野氏家臣から赤穂城を預かった隣国の播磨龍野藩主・脇坂安照もまた在番中に家老・脇坂民部の目代が刃傷事件を起こし、6月24日、赤穂城内で死傷者を出す(脇坂赤穂事件)。また、城下の町人(主に子供)が水堀で釣りをしたり、百姓たちが二の丸の蔵米を奪おうとしたり、多数の領民が暴れて建物や石垣を壊したりした(三の丸で清水門が破損したと記される[28])。民部はこれらを取り締まると共に米合計3036俵を城から移転した。龍野に在国中の安照が幕府に城の破損状況を報告している[29]。幕閣の命で代官が派遣され、建物壁の落書消しや石垣修復が行なわれた。そのほか城には多数の犬が居た記録が残る[30]。


翌1702年(元禄15年)に永井直敬が3万3000石で入封した。 1706年(宝永3年)に当代の直敬は信濃国飯山藩へ転封となると、森長直が備中国西江原藩より2万石で入部。この森家は廃藩置県までの12代165年間、赤穂藩主として最も長く在封することになる。


幕末に至ると藩政の改革をめぐり、1857年(安政4年)に保守派・革新派の対立が起こって藩内は分裂し、革新派の一部は脱藩して長州藩へ奔る(はしる)。


文久2年(1862年)12月9日、尊皇攘夷論に傾斜を強めていた西川升吉ら中下級武士13名が、佐幕派の一門・森主税(可彝)を赤穂城で斬殺した。藩儒(朱子学教授)・村上真輔(天谷)も城下の屋敷で殺害される[31]。襲撃者の13人は西川など7人が刑死または捕縛前に同士討ちで死亡、6人が高野山にある藩祖の墓守とされた(文久赤穂事件)[32]。

藤島城

 





藤島城


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曖昧さ回避 この項目では、山形県鶴岡市にあった藤島城について説明しています。福井県福井市にあった同名の城については「藤島城 (越前国)」をご覧ください。

logo藤島城

(山形県)

別名 藤島城

城郭構造 輪郭式平城

天守構造 なし

築城主 不明

築城年 不明

主な城主 葉室氏、久我氏、堀川氏、

北畠氏、土佐林氏、丸岡氏、

栗田氏、木戸氏、新関氏

廃城年 1615年

遺構 土塁、堀

指定文化財 市の史跡

地図

藤島城の位置(山形県内)藤島城藤島城

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藤島城(ふじしまじょう)は、山形県鶴岡市藤島にあった日本の城。市指定史跡[1]。


概要[編集]

天守閣を持たない平城であり、本丸の周りには内堀が囲み、外堀は自然の河川である藤島川を利用している。周辺領域には、向楯、平形楯、古郡楯、柳久瀬楯、勝楽寺楯等の前衛支城を擁する難攻堅固な城であった。


築城された時期は、資料が残っていないため不明であるが、和銅年間(西暦708年から714年)に、平(平形)に国府が置かれた時の府城ではないかと考えられ、出羽守や鎮守府将軍の居城であった。


現在、本丸跡には八幡神社の社が建っており、二の丸と三の丸跡は山形県立庄内農業高等学校の校舎と敷地になっている。


来歴[編集]

1333年(元弘3年)、葉室光顕が出羽国司として下向する。

1351年(南朝:正平6年、北朝:観応2年)、北畠顕信が守永親王を奉じて挙兵する。

南北城時代より土佐林氏の居城となる。

1571年(元亀2年)、丸岡兵庫頭(後の大宝寺義興)が城主となる。

1590年(天正18年)、太閤検地の際、地侍が農民を扇動し一揆を起こして篭城する。

1615年(元和元年)、最上氏の改易によって廃城となる。

1976年(昭和51年)、藤島町指定文化財史跡(現・鶴岡市指定文化財史跡)となる。

所在地[編集]

所在住所 - 〒999-7601 鶴岡市藤島古楯跡

脚注[編集]

[脚注の使い方]

^ 鶴岡市指定文化財一覧鶴岡市公式HP

関連項目[編集]

日本の城一覧

カテゴリ: 山形県の城出羽国の城現存しない山形県の建築物鶴岡市の建築物鶴岡市の歴史葉室家久我氏堀川氏北畠家土佐林氏丸岡氏栗田氏木戸氏新関氏