根城
(青森県) | |
|---|---|
本丸(2007年4月) | |
| 城郭構造 | 連郭式平山城 |
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 南部師行 |
| 築城年 | 建武元年(1334年) |
| 主な城主 | 根城南部氏 |
| 廃城年 | 寛永4年(1627年) |
| 遺構 | 土塁、堀、井戸、供養塔、大銀杏 |
| 指定文化財 | 国の史跡 |
| 再建造物 | 主殿・上馬屋・中馬屋・工房 鍛冶工房・板倉・納屋・東門・北門・西門・番所・中館馬屋 |
| 位置 | 北緯40度30分22.83秒 東経141度27分34.6秒 |
| 地図 | |

根城(ねじょう)は、青森県八戸市根城にあった日本の城。国の史跡に指定。日本100名城の一つ。
概要[編集]
根城は八戸市街地の西端にあり馬淵川南岸の河岸段丘上にある[1]。 本丸・中館・東善寺・岡前舘・沢里館の5つの館(曲輪)が連なる連郭式の平山城である。現在は、本丸・中館・東善寺の3つの郭が現存している。
現在、館跡の礎石、曲輪、空堀、土塁が遺構として認められる。本丸には主殿・上馬屋・中馬屋・工房・鍛冶工房・板倉・納屋・東門・西門・北門・番所・中館馬屋が復元されているが、常盤御殿、奥御殿、下馬屋、祭壇、物見櫓、中館、東善寺、埋め立てられた堀は予算の関係で復元されてない。また、予算の関係でこれ以上の木造復元計画はない。
歴史・沿革[編集]
南北朝時代[編集]
- 1333年(元弘3年、正慶2年) 南朝方に属する武将・北畠顕家は陸奥国司として後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じて陸奥国に下向した。この時、甲斐国波木井の地頭職であった南部師行も供奉し、国代として任じられた。
- 1334年(建武元年) 師行は、糠部郡八森に城を構えた。師行はここを、南朝方の根本となる城という願いから「根城」と名付けた[2]といわれる。師行は大光寺合戦などで戦功を立て津軽地方にも勢力を伸長した。
- 1338年(南朝:延元3年、北朝:暦応元年) 南部師行は北畠顕家とともに足利尊氏討伐に遠征した。師行は和泉国石津川(現・大阪府堺市西区浜寺石津町)の地で北朝方の高師直との戦いで顕家と共に戦死した。
師行の死後、弟の政長が跡を継いだ。政長は室町幕府から再三の降伏勧告を受けたが従わず南朝への忠誠を守り続けた。しかし、南朝方が次第に劣勢となると、京から遠く離れた奥州北部の南部氏の勢力も次第に弱体化していった。
- 1393年(明徳4年) 南部氏8代の八戸政光は本領の甲斐から根城に移って南部氏の再興を図った。この系統は八戸氏とも呼ばれている。その後も周囲での小競り合いが絶えず不安定な時代が続いた。そして、同族である三戸南部氏が次第に有力になる。
安土桃山時代[編集]
- 1590年(天正18年) 小田原征伐の際に宗家の三戸城主南部信直は豊臣秀吉の元に帰参して所領の南部7郡を安堵された。この際に、根城南部氏(八戸氏)も宗家の支配下に組み込まれた。
- 1592年(天正20年)、秀吉の命令により城そのものは破壊されたが館自体は残され、これ以降も八戸氏の本拠であり続けた。

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