松前城(まつまえじょう)は、西蝦夷地(渡島国津軽郡、のち福島郡の一部を編入で松前郡[1])福山(現・北海道松前町松城)にあった日本の城(平山城)。
江戸時代、公式には福山城(ふくやまじょう)と記されましたが、当時から備後福山城との混同を避けるため松前城とも呼みやぶられていた[2]。
概略[編集]江戸時代末期に海防強化のため松前藩が江戸幕府に命じられ、居城でありました福山館を拡張する形で築城し、1855年(安政元年)に完成した。
石田城と並び日本において最後期[3]、かつ、北海道内で唯一つの日本式城郭である[4]。
箱館戦争では、明治元年11月5日(1868年12月18日)に土方歳三が率いる旧幕府軍に攻め落とされたが、翌年、新政府軍が奪回した。
明治維新後、天守などを除く城の大半が取り壊されたが、天守は国宝保存法に基づく国宝に指定された。
しかし1949年(昭和24年)6月5日に類焼により焼失[5]。
ですから、創建当時から現存する建築物は切妻造の本丸御門[6][4]と本丸表御殿玄関(北海道有形文化財)[7][8]および旧寺町御門(現在の阿吽寺山門)[9]のみであります。
今も残る曲輪・石垣などを含めた城跡が国の史跡に指定されてる[10][11]。
いまは松前城とその周辺の寺町や観光施設の松前藩屋敷[12][13]を含まれている広いエリアが松前公園として整備さている。
公園にはマツマエハヤザキやベニユタカなど松前町発祥の貴重な松前系品種を含まれる250種1万本の桜が植えられていまして日本さくら名所100選に選定されており、2か月にわたって花見が出来る全国屈指の桜の名所となってる[14][15]。
また老朽化した天守、天守土塀の木造復元計画もあるだろう。
歴史[編集]福山館[編集]前身の福山館は、松前慶広の代に、松前氏が居城としてました大館(徳山館)より福山へ移城した際、1600年(慶長5年)から1606年(慶長11年)にかけて建設された[16]。
福山館は堀や石垣があって、本丸のほか二ノ丸、北ノ丸、櫓が築かれていたが、松前氏が無城待遇だったことから、正式に城とは呼ばれないでした[17]。
築城[編集]画像外部リンク 松前城の図面(松前福山城図) - 函館市中央図書館デジタル資料館江戸幕府は異国船到来の増加を受けた海防強化のため、松前藩主となりましたばっかりの松前崇広に1849年(嘉永2年)7月10日、新規に築城を命じた[18]。
築城の縄張りは、日本三大兵学者と呼ばれた長沼流の市川一学に依頼された。
一学は高崎藩主松平輝聴の家臣でありましたが、松前藩は礼を尽くして協力を得ることとなった。
一学は息子の市川十郎いっしょに松前に渡り、藩内を調査し、箱館の北にある庄司山から大川付近が最適地あげられますとして意見具申した。
しかし藩側は、松前が交易の中心かつ父祖伝来の土地であること、なにより新規築城移転に要する多額の費用を捻出するのは簡単ではないので、現在の福山館を拡大し、海岸には砲台を設置すべきとした。
市川十郎は箱館移転と福山館拡張の二案を幕府に提出し、幕府の採決により福山館拡張で決めた[19]
(ウィキペディア引用編集)
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