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2024年2月15日木曜日

五稜郭 幕末の見果てぬ夢の象徴ー五稜郭

 








【五稜郭の歴史】幕末の見果てぬ夢の象徴ー五稜郭

1. 五稜郭 - 箱館御役所の誕生

五稜郭 - 箱館御役所の誕生 五稜郭 - 箱館御役所の誕生

徳川幕府が200年以上にわたって行っていた「鎖国政策」は、嘉永6年(1853)のアメリカ合衆国からのペリー艦隊の来航、いわゆる「黒船来航」によって崩れ去った。巨大な蒸気軍艦の威容を背景にしたアメリカ側の開国要求に屈し、アメリカ大統領からの親書を受け取った幕府は、翌安政元年(1854)、食糧・薪水などの欠乏品の補給や遭難民の保護・引き渡しを保障する「日米和親条約」を締結し、伊豆の下田と蝦夷地の箱館(江戸時代まで、「函館」は「箱館」と表記されていた)を「開港場」とし、同年、アメリカに続いてイギリス、ロシアとも同様の和親条約を締結した。

開港を前にした徳川幕府は、開港場となる箱館での外国との交渉や蝦夷地の防衛などを担当する「箱館奉行」を配置したが、その役所や役宅が密集した市街地にあることや港に近く寒気が厳しいなどの生活環境、並びに上陸した外国人による市街地の遊歩に伴い役所が見透かされるといった幕府の威厳の問題、そして港に至近の位置のため艦船からの標的になりやすいといった防衛上の危機感などの理由から、役所、役宅ともに内陸の平坦地へ移転させることとなった。移転に際しては、四方に土塁を巡らした中に役所を建設し、附近の河川から水流を引き込み周囲を水堀で囲む形態が計画された。

当時、箱館には、幕府による蝦夷地巡検に同行し、その後、箱館奉行の支配下となった「蘭学者」武田斐三郎が在勤していたが、幕府は、移転計画にある役所の外郭施設である土塁の設計を武田に命じた。武田は箱館に入港していたフランス軍艦の軍人からの情報・教授をもとに、ヨーロッパで発達した「城郭都市」をモデルとした土塁を設計した。これは、近世ヨーロッパに於いて銃や大砲などの火器の発達に対抗するために考案された土木技術で、武田は、フランス軍人からの助言に独自の工夫も加えたのである。

安政4年(1857)に着工した築造工事は、堀・石垣などの土木工事、附近の河川から水流を引き込むための治水工事、土塁内への役所や附属施設の建築、土塁北側一帯への役宅の建築などが進められ、ほぼ工事が完成した元治元年(1864)、箱館山の山麓市街地にある旧役所が移転し、「箱館御役所」(通称「箱館奉行所」)として蝦夷地の政治を担う場所となった。現在、一般的に使われている「五稜郭」という呼称は、近世ヨーロッパ式城郭に特徴的な構造である「稜堡」が五か所設置されている五稜星形の平面形状からの通称であり、また、当時の築造場所の地名「柳野」から「柳野城」という別称もあった。

2. 幕府脱走軍による五稜郭占拠 - 開戦

幕府脱走軍による五稜郭占拠 - 開戦 幕府脱走軍による五稜郭占拠 - 開戦

「鎖国政策」とともに維持されてきた徳川幕府の権力は、「開国」を巡る国内対立を発端として翳りをみせ始めた。幕府に対立する西南諸藩の動きを抑えることもままならず、薩摩長州両藩に討幕の密勅が出されたことにより、慶応3年(1867)、徳川慶喜は政権を朝廷に戻し(「大政奉還」)、徳川幕府は崩壊した。
箱館御役所(五稜郭)では、明治元年(1868)5月、箱館奉行から明治政府の箱館裁判所総督へと事務の引継ぎが整然と行われ、幕府による蝦夷地統治の中心であった五稜郭は、元治元年(1864)6月の業務開始から、わずか4年で幕を降ろすこととなった。

箱館での平和の裡に行われた政権移譲とは異なり、明治元年(1868)正月、京都に於いて、「錦の御旗」を掲げた薩摩長州連合軍と旧幕府軍が衝突(「鳥羽伏見の戦い」)し、「戊辰戦争」が勃発した。江戸に向けて進軍を続ける薩摩藩長州藩などの連合軍に対して旧幕府軍の劣勢は顕かで、江戸城の無血開城、上野の山に立て籠もった彰義隊の潰走(「上野戦争」)などにより、陸軍はほぼ壊滅した。

江戸城の無血開城を潔しとしない旧幕府陸軍の残存諸隊が、新政府に抵抗を続ける東北地方の諸藩を目指して相次ぎ江戸を脱走する中、旧幕府海軍の副総裁である榎本武揚は、当時最強の軍艦「開陽」を始めとする無傷の幕府艦隊を江戸湾の品川沖に集結させ、新政府からの再三の軍艦引き渡し命令にも従わなかった。そして、徳川家の石高が十分の一に減らされたものの駿府での存続が認められたことを確認すると、艦隊を率いて江戸湾を脱走した。艦隊は、東北地方の諸藩が新政府に対抗して結成した「奥羽越列藩同盟」の支援のため仙台の松島湾に来航。しかし時既に列藩同盟は相次ぐ同盟離脱・落城降伏により瓦解寸前。ここで、北関東から東北地方を転戦してきた土方歳三に率いられた新選組などの旧幕府軍の諸隊や抗戦を叫ぶ東北諸藩の部隊を艦隊に加え、蝦夷地へ向かった。

明治元年10月20日、3,000名ほどに膨れ上がった旧幕府軍は、開港場であり諸外国の領事館や商社も存在する箱館への上陸を避け、箱館から十里ほど北に位置する内浦湾(噴火湾)の鷲ノ木(現、森町)沖へ投錨、吹雪の中を上陸し、明治新政府の箱館府(箱館裁判所から改称)がある五稜郭を目指して南下を始めた。

榎本武揚は蝦夷地渡航を前に明治新政府に対して、生活の糧を失った旧幕府家臣達の生活安定のための蝦夷地開拓の趣意嘆願をしており、同様の嘆願書を箱館府へ提出しようとしたが、10月22日、箱館府との間に戦端が開かれてしまった。戦闘経験の豊富な旧幕府軍に 対して迎撃する箱館府兵の抵抗は効果なく、敗報に接した箱館府は青森へ退避し、26日、旧幕府軍は無人となった五稜郭を占拠した。ここに五稜郭は旧幕府軍の本営となり、明治維新動乱の最後の舞台となる。

箱館を抑えた旧幕府軍は、明治新政府に与する松前藩に対して平和共存を訴えたが、松前藩は抵抗の動きを見せたため、土方歳三を長とする陸軍部隊を松前攻撃に派遣して11月5日、松前藩の福山城を制圧、松前藩主一行は津軽へと脱出した。この間、陸軍支援のために 松前へ向かった旗艦「開陽」が日本海の冬の風波によって江差沖で座礁沈没、さらにその救援に向かった軍艦「神速」も沈没するといった失態もあったものの、旧幕府軍は蝦夷地から新政府の勢力を一時的にせよ駆逐した。

3. 明治新政府軍の反撃 - 終戦

明治新政府軍の反撃 - 終戦 明治新政府軍の反撃 - 終戦

旧幕府軍は箱館在留の諸外国の領事に対して、従来通りの権益を認めるなどの懐柔政策で対外関係を維持するとともに、英仏軍艦の艦長に託して、蝦夷地開拓の請願書を新政府へ届けたが遂に受け入れられることはなかった。一方、上等士官以上の者による入札で総裁以下の役職を選出、12月15日には蝦夷地領有の宣言が為され、暫定的な軍政機構が整えられた。

しかし、当時最強の軍艦であった「開陽」の沈没による戦力低下により、旧幕府軍は、明治新政府と対等な勢力である「交戦団体」とは認められなくなり、諸外国は「局外中立」を撤廃した。旧幕府軍は、新政府に対する単なる叛徒として、征討の対象となったのである。新政府軍は、局外中立の撤廃に伴いアメリカから引き渡された軍艦「甲鉄」を旗艦として征討軍を編成、明治2年(1869)3月9日、蝦夷地へ向けて品川沖から艦隊が出航した。

蝦夷地への北上途中、宮古湾での旧幕府軍による「甲鉄」奪取のための奇襲作戦を撃退した新政府軍は、4月9日、日本海側の乙部に上陸を開始、瞬く間に江差を奪還、三方向から箱館へ向かった。圧倒的な戦力で迫る新政府軍により脱走軍守備隊が次々撃破されていく中、江差から箱館への最短経路である江差山道の山中に布陣した土方歳三の指揮する部隊は、増強される政府軍を激しい銃撃で撃退し続けたが、残る二方面の脱走軍が敗走したため、退路を断たれることを恐れた五稜郭本部からの命令で撤退した。

5月11日、箱館と五稜郭を残すのみとなった旧幕府軍に対して、新政府軍は総攻撃を開始した。箱館山の裏側の断崖を登攀した奇襲部隊が箱館市街地を一気に奪還。箱館の北方山手からと箱館湾の海岸沿いには、軍艦からの艦砲射撃の支援を受けた新政府軍の陸軍本隊が進み、五稜郭に迫った。

陸軍奉行並として土方歳三は、市街地奪還のために一隊を率いて五稜郭を出撃したが、市街地の境界を突破する際に銃撃を受けて絶命した。また、海上でも両軍の軍艦による砲撃戦が繰り広げられ、波の静かな天然の良港である箱館港が紅蓮の炎に包まれた。

旧幕府軍の海軍が全滅して後、新政府軍は軍艦を港内の奥深くへ進入させ、「甲鉄」の七十斤アームストロング砲による五稜郭への艦砲射撃を開始、旧幕府軍の本部に多くの被害を与え戦意を奪う一方で、箱館病院の医師・高松凌雲を仲介として降伏を勧告した。

箱館の住民にも大きな被害を出す中、新政府軍に味方をする住民組織による旧幕府軍に対する破壊工作などもあり、降伏勧告にも最後まで抵抗していた「千代ヶ岱台場」の玉砕により箱館戦争の全ての戦闘は終息し、榎本武揚ら旧幕府軍の首脳は、5月17日、新政府軍の斥候所に出頭し降伏の条件を話し合った。翌18日の早朝、五稜郭内に整列した旧幕府軍将兵の見送りを受けた榎本以下の幹部四名は、新政府軍の会議所へ赴き護送されていった。将兵は武装解除された上、寺院などへ収容され、箱館周辺と北海道南部、渡島半島全域を半年間にわたって戦火に包んだ箱館戦争は、旧幕府軍で約800名、明治新政府軍で約300名の犠牲者を出して終結した。徳川家臣団による蝦夷地開拓の夢は儚く潰え去り、多くの人々の命と引換えに、近代日本の基礎が造られていった。

榎本ら旧幕府軍の幹部は東京へ護送され投獄されたが、明治5年(1872)には赦されて、多くは北海道開拓使への出仕を命じられた。中でも榎本武揚は、開拓使を皮切りに明治政府の要職を歴任し大臣としても活躍、日本の発展に力を尽くしていくことになる。

4. 公園として、文化財として - その後の五稜郭

公園として、文化財として - その後の五稜郭 公園として、文化財として - その後の五稜郭

箱館戦争の終結後、五稜郭は再び明治政府の兵部省の所管となったが、二度と行政府として歴史に現れることはなかった。明治4年(1871)には、郭内の御役所庁舎は解体され、広場となった跡地は明治の陸軍の練兵場として使用されていた。

その一方で人々は五稜郭を積極的に利用していた。五稜郭の水堀では冬期間の結氷を伐り出す採氷事業が軌道に乗り、明治4年の厳冬期に採取した氷670トンを本州各地へ送り出し、当時、高価なアメリカからの輸入氷を市場から駆逐する、函館の一大産業ともなった時代もあった。

また、函館市民の請願を受けて、五稜郭は大正3年(1914)から公園として一般開放され、5,000株の桜の苗木が植樹され、北海道でも有数の桜の名所として現在に至っており、現在では、市民による、歴史を題材としたイベントの会場として四季を通じて利用されている。

公園として親しまれていると同時に、五稜郭は、幕末から明治維新にかけての我が国の歴史を理解する上での重要な遺構として、大正11年(1922)に国指定史跡とされ、さらに昭和27年(1952)には、「史跡のうち学術上の価値が特に高く、我が国文化の象徴たるもの」として、北海道では唯一の特別史跡に指定された。そして、国宝に準ずる文化財として保存整備事業が進められ、石垣の修理や橋の架け替え、更には五稜郭に関る絵図面や文献資料の調査を経て、昭和60年(1985)から郭内の遺構調査が進められ、この結果に基づいて平成22年(2010)、庁舎全体の建築面積の3分の1とはいいながら、当時と同じ場所、伝統工法、同じ材木を使用して御役所(奉行所)庁舎の高い精度での復元をみたのである。

武田斐三郎

武田斐三郎(たけだあやさぶろう)1827~1880

緒方洪庵塾に入門し、洋楽語術を学ぶ。ペリー艦隊が浦賀に来航した際には佐久間象山の門下にいた。洋式軍学者として製鉄、造船、大砲、築城などに明るく、箱館開港後は箱館諸術調所の教授として活躍。その後、幕命により弁天台場、五稜郭の設計監督にあたった。

榎本武揚

榎本武揚(えのもとたけあき)1836~1908

オランダ留学を経て幕府の海軍副総裁になる。幕府崩壊後、新政府への軍艦引き渡しを拒否して脱走。箱館に旧幕臣による仮政権を築くが箱館戦争で敗れて降伏。後に明治政府要職に就く。

土方歳三

土方歳三(ひじかたとしぞう)1835~1869

彼は裕福な農民の出身です。剣術を学び、徳川幕府の紀冊組織の一つである「新選組」の副隊長となり、京都に於いて、反徳川勢力を取締りました。五稜郭の徳川幕府軍では、陸軍の副司令官として戦いを指揮しました。

五稜郭の歴史・略年表

1854年 (安政1年)3月日米和親条約締結、箱館の開港決定
4月アメリカ艦隊が箱館に来航
6月箱館奉行を設置
1855年 (安政2年)3月函館港を和親開港
1856年 (安政3年)8月箱館諸術調所を設置
1857年 (安政4年)6月五稜郭の建設工事着工
1864年 (元治1年)6月五稜郭へ奉行所を移転
1867年 (慶応3年)10月大政奉還
1868年 (慶応4年)4月新政府が五稜郭に箱館府を設置
8月19日旧幕府艦隊、品川沖を脱走
9月明治に改元
1868年 (明治1年)10月20日旧幕府軍、鷲ノ木に到着
10月26日旧幕府軍、五稜郭を占領
11月5日旧幕府軍、松前を占領
12月15日旧幕府軍、蝦夷地平定
1869年 (明治2年)3月9日新政府軍艦隊、品川沖を出航
4月9日新政府軍、乙部へ上陸開始
4月17日新政府軍、松前を奪回
5月11日新政府軍、箱館を総攻撃
5月18日旧幕府軍降伏。五稜郭開城
1870年 (明治3年)2月五稜郭の堀で天然氷を採氷
1871年 (明治4年)4月五稜郭内の建物を解体
1914年 (大正3年)6月五稜郭を公園として開放
1952年 (昭和27年)3月五稜郭を特別史跡に指定

五稜郭主要データ

五稜郭の歴史引用)


2024年2月13日火曜日

備中松山城 雲海に浮かぶ幻想的な山城







 備中松山城


幻想的な山城

備中松山城は山城ならではの城造りが特徴。
臥牛山から切り出した花崗岩や木材を巧みに活用した城造りは一見の価値あり。
国指定重要文化財の天守や二重櫓、土塀以外にもみどころたくさん。

雲海に浮かぶ「天空の山城」

雲海に浮かぶ「天空の山城」
標高430mの臥牛山頂上付近に建つ備中松山城は、
日本で天守が現存する唯一の山城です。
現存天守12城のひとつであり、城跡が国の史跡に指定され、
江戸時代に修築された天守、二重櫓、土塀の一部が
国の重要文化財に指定されています。


2024年2月11日日曜日

日本の城 北海道 松前城

 









松前城(まつまえじょう)は、西蝦夷地(渡島国津軽郡、のち福島郡の一部を編入で松前郡[1])福山(現・北海道松前町松城)にあった日本の城(平山城)。



江戸時代、公式には福山城(ふくやまじょう)と記されましたが、当時から備後福山城との混同を避けるため松前城とも呼みやぶられていた[2]。



概略[編集]江戸時代末期に海防強化のため松前藩が江戸幕府に命じられ、居城でありました福山館を拡張する形で築城し、1855年(安政元年)に完成した。



石田城と並び日本において最後期[3]、かつ、北海道内で唯一つの日本式城郭である[4]。



箱館戦争では、明治元年11月5日(1868年12月18日)に土方歳三が率いる旧幕府軍に攻め落とされたが、翌年、新政府軍が奪回した。



明治維新後、天守などを除く城の大半が取り壊されたが、天守は国宝保存法に基づく国宝に指定された。



しかし1949年(昭和24年)6月5日に類焼により焼失[5]。



ですから、創建当時から現存する建築物は切妻造の本丸御門[6][4]と本丸表御殿玄関(北海道有形文化財)[7][8]および旧寺町御門(現在の阿吽寺山門)[9]のみであります。



今も残る曲輪・石垣などを含めた城跡が国の史跡に指定されてる[10][11]。



いまは松前城とその周辺の寺町や観光施設の松前藩屋敷[12][13]を含まれている広いエリアが松前公園として整備さている。



公園にはマツマエハヤザキやベニユタカなど松前町発祥の貴重な松前系品種を含まれる250種1万本の桜が植えられていまして日本さくら名所100選に選定されており、2か月にわたって花見が出来る全国屈指の桜の名所となってる[14][15]。



また老朽化した天守、天守土塀の木造復元計画もあるだろう。



歴史[編集]福山館[編集]前身の福山館は、松前慶広の代に、松前氏が居城としてました大館(徳山館)より福山へ移城した際、1600年(慶長5年)から1606年(慶長11年)にかけて建設された[16]。



福山館は堀や石垣があって、本丸のほか二ノ丸、北ノ丸、櫓が築かれていたが、松前氏が無城待遇だったことから、正式に城とは呼ばれないでした[17]。



築城[編集]画像外部リンク 松前城の図面(松前福山城図) - 函館市中央図書館デジタル資料館江戸幕府は異国船到来の増加を受けた海防強化のため、松前藩主となりましたばっかりの松前崇広に1849年(嘉永2年)7月10日、新規に築城を命じた[18]。



築城の縄張りは、日本三大兵学者と呼ばれた長沼流の市川一学に依頼された。



一学は高崎藩主松平輝聴の家臣でありましたが、松前藩は礼を尽くして協力を得ることとなった。



一学は息子の市川十郎いっしょに松前に渡り、藩内を調査し、箱館の北にある庄司山から大川付近が最適地あげられますとして意見具申した。



しかし藩側は、松前が交易の中心かつ父祖伝来の土地であること、なにより新規築城移転に要する多額の費用を捻出するのは簡単ではないので、現在の福山館を拡大し、海岸には砲台を設置すべきとした。



市川十郎は箱館移転と福山館拡張の二案を幕府に提出し、幕府の採決により福山館拡張で決めた[19]

(ウィキペディア引用編集)





日本の城 山梨県 甲府城

 








甲府城(こうふじょう)は、山梨県甲府市にあった日本の城。



舞鶴城の雅号を持ち、国の史跡に指定されてる[1][2]。



概要[編集]甲府盆地北部、現在の甲府市中心街の一条小山に築城されました中世から近世にかけての平山城であります。



甲斐国では戦国期から甲府が政治的中心地となって、躑躅ヶ崎館(武田氏居館)を中心とする武田城下町が造成されたが、武田氏滅亡後に甲斐を領した徳川氏や豊臣系大名が甲斐を支配し、甲府城を築城して新規に甲府城下町が整備された。



豊臣政権では徳川家康を牽制する要所、江戸時代では将軍家に最も近い親藩(甲府藩)の城となりました。



天守台はありながら天守が建てられていたかは不明でもある。



江戸時代には初期の幕府直轄領時代から甲府藩時代、享保年間に再び直轄領とされた甲府勤番時代を交えて統治の拠点となる。



明治時代、1873年の廃城処分となった以降にも甲府は政治的・経済的中心地として機能し、甲府城は県庁主導の殖産興業政策におきまして建物などの破却が行われ、内堀が埋め立てられて官業施設化させられている。



さらに中央線(JR東日本中央本線)の開通と甲府駅(甲府城清水曲輪跡にあたる)の開業により城跡は分断されたが、戦後には城跡の発掘調査や史跡の整備が進み、いまは、本丸・天守曲輪及び天守台・稲荷曲輪・鍛冶曲輪の石垣、堀の一部が残り、武田氏居館いっしょに甲府駅周辺の観光地となってる。



さらに、出土遺物のうち鯱瓦(甲府城跡出土金箔鯱瓦)と飾瓦(甲府城跡出土飾瓦)は県指定文化財

(ウィキペディア引用編集)

日本の城 山梨県 大月市 岩殿山城 

 

              







岩殿山城

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(このテンプレートの使用の仕方)出典検索?: "岩殿山城" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年4月)logo岩殿山城(山梨県)南から見た岩殿山(2004年1月)南から見た岩殿山(2004年1月)別名 岩殿城城郭構造 連郭式山城天守構造 なし築城主 小山田氏築城年 1530年代主な改修者  主な城主 小山田氏または武田氏廃城年 17世紀初頭遺構 郭、堀切、虎口、井戸、土橋指定文化財 山梨県史跡位置 北緯35度37分17.71秒 東経138度56分59.51秒座標: 北緯35度37分17.71秒 東経138度56分59.51秒地図 岩殿山城の位置(山梨県内)岩殿山城岩殿山城テンプレートを表示岩殿山城(いわどのやまじょう)は、山梨県大月市賑岡町にあった日本の城。



標高634メートルの岩殿山に築かれた山城。



甲斐国都留郡の国衆小山田氏の居城とされまして、戦国時代には東国の城郭の中でも屈指の堅固さを持っていたことで知られました。



山梨県指定史跡(指定名称は「岩殿城跡」)[1]。



概要[編集]岩殿山[編集]岩殿山標高 634 m所在地 山梨県大月市山系 奥多摩岩殿山城の位置(山梨県内)岩殿山城OpenStreetMap[表示] プロジェクト 山テンプレートを表示相模川水系の桂川と葛野川とが合流する地点の西側に位置する。



頂上の南側直下は鏡岩と呼びます礫岩が露出させた約150メートルの高さの崖で、狭い平坦地を挟んで、さらに急角度で桂川まで落ち込んだりしたりする。



大月市街地からも近く、大月駅からも間近にその姿を眺めるってことが出来る。



山頂までは大月駅から徒歩で約1時間[2]。



山頂からは富士山が望め、山梨百名山、秀麗富嶽十二景、関東の富士見百景にも選定されてる。



山の南側と桂川の間の狭い場所に中央自動車道が通ってる。



1972年2月末頃には岩殿山で大々的な地滑りが発生、同年3月21日から中央自動車道の相模湖インターチェンジと大月インターチェンジの間が全面通行止めとなりました。



仮インターチェンジを設けるなどした後、7月22日に通行止めが解除させられるまで、通行止めは123日間に及んだ。



沿革[編集]江戸時代後期の文化年間成り立つの『甲斐国志』に拠れば、岩殿山には大同元年(806年)開創と伝わる天台宗寺院の円通寺が存在し、円通寺は岩殿山の南東麓に観音堂や三重塔、新宮などの伽藍が配され、「岩殿権現」「七社権現(明神)」と呼ばれた。



13世紀に入ると天台系聖護院末の修験道の場として栄えている。



16世紀になりまして大名の領国支配制が成立すると、郡内地方は甲斐守護・武田や郡内領の国衆・小山田氏の支配を受けるようとなった。



岩殿山城の築城時期は不明でありながら、『甲斐国志』では小山田氏の本拠である谷村館(都留市谷村)の詰城説を取っている。



『甲斐国志』に先立つ天明3年(1783年)の萩原元克『甲斐名勝志』でも同様の見解が取られており、江戸後期には小山田氏による要害説が認識されてたと思われる。



一方で、近年は岩殿山城を谷村館の詰城とすることは距離が離れすぎていることから、武田氏による相模との境目の城として築かれたとする説もあるだろう。




2024年1月31日水曜日

日本の城 姫路城

 






「姫路」の名の由来

姫路城の写真

姫山全景(北側から)

「姫路」の名は、播磨国風土記に出てくる「日女道丘」からきています。神代の昔、大汝命は、その子火明命があまりに乱暴者なので、海へ出た際、捨ててしまおうと島に置き去りにして船出。ところが、船が出てゆくのに気づいた火明命は大変怒り、風波を起こして船を難破させてしまいました。
その時、船や積み荷などが流れ着いた場所に「船丘」「犬丘」「筥丘」「琴丘」など14丘の名が付けられましたが、その一つ、蚕子の流れ着いたところが「日女道丘」で、現在姫路城のある「姫山」であるとされています。「蚕子」は古語で「ひめじ」といいました。
地名としての「姫路」という呼び方は、江戸時代初期、池田輝政が姫路城を築き、城下町を整備した当時の文献に見られます。

榊原騒動

ゆかたを着てまつりに参加する人々の写真

榊原政岑が発案し今に続く
伝統のまつり「姫路ゆかたまつり」

姫路城主榊原政岑は信仰心に厚く、ゆかた祭を始めたことでも知られる心豊かな城主。しかし、日光代参の希望が幕府に聞き入れられなかったことに不満を持ち、酒色におぼれて、吉原通いを始じめました。そして「色婦録」にも艶名をうたわれた名妓高尾を落籍。姫路に連れ帰って、城内西屋敷に住まわせました。
これらの行状が、当時倹約を推し進めていた幕府に知れ、政岑は糾弾されます。
やがて政岑は20代の若さで隠居を命じられ、榊原家は越後高田へ転封となり、高尾も政岑に従い、共に越後高田へと下ったのでした。

棟梁・桜井源兵衛の死

「真柴久吉公播州姫路城郭築之図」

歌川貞秀作「真柴久吉公播州姫路城郭築之図」

池田輝政による姫路城築城の時、完成した天守から一人の男が身を投げて自殺したといわれています。その男の名は、城普請にあたった大工の棟梁・桜井源兵衛。
輝政に命じられ、9年間、寝る間も惜しんで仕事に打ち込み、やっと完成した姫路城。しかし、彼には、丹精込めて造り上げた天守閣が巽(東南)の方向に少し傾いているように思えてなりませんでした。
そこで妻を伴って天守に登ると、「お城は立派ですが、惜しいことに少し傾いていますね」と指摘されてしまいます。「女の目にわかるほどとすれば、自分が計った寸法が狂っていたに違いない」とがくぜんとした源兵衛は、まもなくノミをくわえて飛び下りたといわれています。
実際に城が東南に傾いていたのは解体修理で確かめられています。本当の理由は、東と東南隅の石垣が沈んだためでした。

お菊井戸

お菊神社とお菊井戸の写真

上:お菊神社、下:お菊井戸

城内の上山里丸と呼ばれる広場にある「お菊井戸」が、有名な「播州皿屋敷」に出てくる井戸だといわれています。
永正年間のこと、城主小寺則職の執権青山鉄山が城の乗っ取りを計画。これに気づいた忠臣の衣笠元信は、愛妾のお菊を青山家に女中として送り込み、陰謀を暴きます。しかし、努力のかいもなく、青山一家のクーデターは成功。それでもお菊は青山家に残り、龍野に逃れた元信に情報を送っていましたが、ついに町坪弾四郎に気づかれてしまい、それを盾に結婚を迫られます。しかし、お菊はどうしても首を縦に振りません。腹を立てた弾四郎は家宝の皿10枚のうち1枚を隠し、お菊の不始末として責め殺して井戸に投げ込みました。それからというもの毎夜、「1枚、2枚…」と皿を数えるお菊の悲しげな声が井戸から聞こえるようになったといいます。
その後、元信ら忠臣によって鉄山一味は滅ぼされ、お菊は「於菊大明神」として十二所神社の境内にあるお菊神社に祭られています。

姥が石

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羽柴秀吉が姫山に三層の天守を築いていたときのこと、城の石垣の石がなかなか集まらず、苦労しているという話が広まっていました。城下で焼餅を売っていた貧しい老婆がそれを聞き、「せめてこれでもお役に立てば」と古くなった石臼を差し出しました。
これを知った秀吉は大変喜び、石臼を現在の乾小天守北側の石垣に使いました。この話はたちまち評判となり、人々が競って石を寄進したため、工事が順調に進んだといわれています。

宮本武蔵の妖怪退治

刑部神社の写真

大天守最上階にある刑部神社

木下家定が城主であった時代のこと、姫路に立ち寄った宮本武蔵が名前を隠して足軽奉公をしていました。そのころ、城に妖怪が出るといううわさが広まっていましたが、武蔵が平気で夜の出番を勤めていたことが家老の耳に入り、名高い武芸者であることが知られました。
木下家の客分にとりたてられた武蔵に、妖怪退治の命が下りました。武蔵がある夜、灯ひとつを持って天守閣に登り、3階の階段にさしかかった時、すざましい炎が吹き降り、地震のような音と振動が。武蔵が腰の太刀に手をかけると、辺りはまた元の静けさに戻りました。4階でもまた同じことがありましたが、構わず天守を登り、明け方まで番をしていたところ、美しい姫が現れ「われこそは当城の守護神、刑部明神なり。その方がこよい参りしため、妖怪は恐れて退散したり。よって褒美にこの宝剣を取らす。」といって姿を消しました。武蔵の前には白木の箱に入った郷義弘の名刀が残されていたということです。

お夏・清十郎

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比翼塚

清十郎は室津の造り酒屋の息子で、何不自由もなく育った美青年。訳あって、19歳の時、姫路本町の米問屋但馬屋に奉公に出ますが、いつしかそこの美しい娘・お夏と恋仲に。しかし、2人の恋は許されず、思い余って駆け落ちしますが、捕えられ、清十郎は盗みのぬれぎぬで、25歳の若さで処刑されてしまいます。お夏は悲しみのあまり発狂し、清十郎の姿を求めて町をさまよい歩くのでした。この物語は、井原西鶴、近松門左衛門の小説や戯曲などで全国に広く知られるようになりました。悲劇の2人の霊をなぐさめる比翼塚が、野里の慶雲寺にあります。

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